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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-01-05 16:38:55 (1539 ヒット)

                    神の恵みの物語
 新年明けましておめでとうございます。今年も神の恵みに与り、喜びをわかちあって歩みましょう。
 毎年、年末には聖歌隊が「数えてみよ、主の恵み」を賛美してくださいます。一年を振り返り、どれほど神の恵みと守りに支えられた生活であったかを想う心へと導いてくれます。けれども、そこにおいて、私たち人間の想いに照らしては「数えられていない恵み」があるのだろうと感じます。わたしたちはきっとたくさんの小さな賜物を見落としています。気に入らないこと、気にとまらないことの中に、神の恵み、神の賜物があったことでしょう。
 しかし、わたしたちがどうであろうと、神は私たち自身を、そして教会という交わりを成長させてくださるために恵みを注いでくださっています。
それを少しでも見いだし、掘り出し、あるいは解るようになるまで待とうとすることができるなら、私たちは、今年も自分自身と教会の歩みが「神の恵みの物語」であることに喜びをおぼえることができるでしょう。今年も、どうぞよろしくお願いします。
                     ●吉高 叶(1/3週報巻頭言)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-27 15:23:42 (1533 ヒット)

                    別の道・新しい道
クリスマスに星の導きに従ってイエスに見えた東邦の博士たち。その喜びの背後には依然として深い闇がありました。それは、たとえばヘロデの企てです。博士たちの報告を受け次第、その「知らせの赤子」を殺害しようとする権力者の狂気が厳然と世に立ちこめています。この闇路の中に、博士たちは御告げを受けました。それは「別の道を進め」という御告げでした。クリスマスメッセージがふくむ招きがここにあります。星の導きは飼い葉桶までではありません。「飼い葉桶からの新しい道へ」。クリスマス物語は、そのあとの道に続きます。
たとえば「使徒言行録」は、まさにキリストに出会った結果、別の道を通って生き始めた人々の新しい喜びの記録であると言うことができます。ヘロデの陰謀の中、別の道をたどって進んだ博士たちの「あの道」が、使徒たちの、弟子たちの足下に続いていると。それゆえに、使徒言行録のあらゆる場面には、古い道にしがみつく勢力の暗い闇が影を落としています。しかし、その中で「光」が灯り続けている。伝道もまた、「闇に光りを!そして新しい道を」という主題なのです。光は闇の中に輝く。暗闇は光を理解しなかった。しかしまた暗闇は光に勝たなかった、という言葉が「使徒言行録」全体から響いているように思えるのです。

                     吉高 叶(12/27説教より導入部)



投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-21 21:31:35 (1608 ヒット)

                   光は闇の中で輝く
夫ヨセフの親族の村でさえ拒絶され、誰からも祝福されず、つきあいから追い出され、家畜の洞穴の中で出産するしか術のなかったマリア。悲しみと孤独と心細さの暗闇の中に沈み込んだことでしょう。けれども彼女は、その暗黒の中で、もう一度あの言葉を口にしたのではないでしょうか。「わたしは主のしもべです。みこころがこの身になりますように」。
深い暗闇の中で、彼女は自らの胎の重さと出産の痛みを通して、主のみこころが成就する未来を味わっていました。彼女が宿していたものは未来でした。彼女が産み出したものは光でした。
暗闇は、家畜の穴から荒れ野につながっています。果てしない暗闇です。その暗闇の中に座り込んで生きてきた羊飼いたちが、光に立たされてやってきます。さらに深く続く暗闇の果てから、占星術の学者たちが、光に導かれてやってきます。そうです。クリスマスの舞台は「暗闇」です。「暗闇の中に。暗闇の中で。暗闇の中から。」
そして、クリスマスのテーマは「光」です。光は暗闇の中で輝く!
これが今も変わらぬクリスマス事件の真相です。今も変わらぬ、クリスマスの!
●吉高 叶(12月20日(週報巻頭言)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-13 20:51:02 (1650 ヒット)

                      頂点と底辺
  ルカ福音書2章1-7節。主イエスがどうして飼い葉桶に寝かされたのかを語る聖書の言は極めて短いです。けれども、このわずかな記述の中に、あまりに対称的なふたりの王が明確な意図をもって並べられています。ひとりは世界の頂点に君臨していたローマ皇帝アウグストゥス。もうひとりは、およそ人間が寝かされるはずもない飼い葉桶にしか、場所のなかった主イエスです。
  主イエスが飼い葉桶に寝かされることになったのは、決してベツレヘムの宿屋が満室だったからではありません。結婚前にイエスを孕んだマリアを「罪・けがれの女」と差別し拒絶したヨセフの親族たちが、一族の村ベツレヘムの、どの家の敷居も跨がせなかったからでした。
  主イエスの境遇は単に貧しいだけではありません。卑しめられ、はじかれた人々の生きる底辺。神の子は、そこに寝かされ、そこを生きる人になりました。イエスの生涯は、「そこ」を生きることにおいて徹底しています。そして最後はあまりにも悲惨な十字架です。
  人の見えないもの、人が見ないところ。人が背を向けるところ。そこに神の言・神の業が宿ります。神の愛は、そこを働き場となされるのです。
  クリスマスはその事を告げています。
                                                                    吉高 叶(12/13巻頭言)

 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-06 15:24:18 (1555 ヒット)

                  「恵み」がやってきた
  マリアのところに突然あらわれた天使は、彼女に「恵まれた人」とか「あなたは恵みをいただいた」とか、「恵み」を告知します。けれどもマリアにとってそれは恐怖と不安以外の何ものでもありませんでした。彼女は、思わず「恵み」を拒絶してしまいます。
  「恵み」とはいったい何のことなのでしょう?
  一般的に恵まれた人とは、幸せいっぱいの人のことです。美貌に恵まれたとか、才能に恵まれたとか、強運に恵まれたとか、人間から見てラッキーなこと、順調なことを言い表すときに使います。けれども、聖書は、恵みをそのように捉えていません。人間の求めるものへの嬉しい答えが恵みではないし、人間が欲しいと望んでいるもののことではありません。「恵み」とは、ずばり、神さまの救いの御業のことです。ですから、「恵まれた人」とは望みが叶えられた人のことでも、人生にいわゆる幸福を引き寄せている人のことではなく、「神の救いの業のために用いられる人のこと」です。恵みを受けるとは、神さまの救いの業に関与させられることであり、神さまの救いに参与することなのです。
  マリア物語。それは、マリアが望み叶って幸せになった、そういう意味での「恵まれた女の物語」ではありません。神の「恵み」がぶちあたってきたのです。救い主を与えようとする「大いなる恵み」そのものが。この神の恵みに遭遇し、この神の恵みの業のために用いられる意味において、マリアは「恵まれた人」なのです。そして神は、この新しい大いなる「恵み」を一人の少女に届けることによって、「人間にとって真の恵みとは何か」、そのことについての大転換をもたらそうとしているとも言えます。
  「恵み」をどう受けとめて人生を生きるか。「恵み」をどう理解して人生を生きるか。このことによって、人間の喜びや生き方は大いに変えられていきます。そしてまた、「恵み」をどこにどのように見いだすか、が変わるときに、人間にとって試練や苦しみの意味もまた変えられていくのです。
                                                                             吉高 叶(12月6日説教より)
 

                    


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