本日の礼拝は、当教会で先に御国に召された方々のことを覚え、その在りし日を偲び、御国における魂の平安を祈る「召天者記念礼拝」です。人間は神によって創造された者ですが、同時に有限な者であり、すべての者が「死ぬ時」を迎えます。しかし、イエス・キリストを信じる信仰に生きる者は、たとえ死んでも生きるとヨハネ福音書には書かれています。地上の生が終わってもなお神と共にある命は、永遠に神によって保持されているのです。
本朝の聖書箇所である「ヘブライ人への手紙」では、信仰の父祖と呼ばれるイスラエルの族長たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)の名前が挙げられ、彼らがみな地上では寄留者として過ごしたことが記されています。寄留者とは、旅人という意味であり、地上の住まいを「仮住まい」と考えて過ごす人のことを指します。仮住まいは、一時的な住まいであり、本当の住まいは天国にあると彼らが考えていた、とへブル書の著者は言うのです。召天者記念礼拝を通して、「われらの国籍は天にある」との御言葉(みことば)を覚え、まことの故郷を思い起こす機会を持ちましょう。その故郷こそわれわれの魂が永遠に憩う場所なのです。
●11月3日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙10章で、使徒パウロは「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」という言葉を引用しながら、これに続けて、その主の名を語り伝える人、宣べ伝える者がいなければ、どうしてそれを信じる者が起こされようと書きます。信仰は「聞くこと」によって始まるというのです。パウロの時代、聖書を読んで学ぶという習慣はありませんでした。なぜなら、聖書自体の数が少なく、しかも大変高価だったため、庶民には手が届かない代物だったのです。ゆえに、神の言葉を耳で聞くしかなかったのです。
続いて、パウロはイザヤ書の言葉を引用しながら「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と述べます。「足が美しい」とは、異常な表現ではないでしょうか。この時代、岩場や砂地が多いパレスチナの山々を行き巡ることは決してたやすいことではなく、むしろ困難で危険なことでした。しかも、人々は粗末な履物しか履いてなかったため、足元はほこりや泥で汚れ出血することも珍しくなかったのです。ところが、その足をイザヤは「美しい」といいます。それはどういうことか。本日はここに注意して、御言葉(みことば)に耳を傾けます。
●10月27日 週報巻頭言 牧師 木村一充
当教会YouTubeチャンネルでは竹下静さんによる特別賛美も配信中です。
本日は、市川市にある聖望キリスト教会より竹下力先生(同教会協力牧師)、ならびに声楽家の竹下静さん夫妻をメッセンジャーとしてお招きして「秋の特別礼拝」をささげます。
竹下力先生は、1973年に静岡県で生まれ、都内の大学を卒業された後、IJT宣教神学校牧師志願科を卒業されました。平日は、旅行関係のお仕事をされながら、日曜日は遣わされた教会で、神の言葉を取り次ぐという巡回説教者として、神さまのご用を担っておられます。本人の言葉をお借りすれば、「ちょっと風変わりな伝道者」ということですが、かつて前任教会でもご夫妻を礼拝にお招きしたことがありました。旅行関係の仕事をされていることもあり、ガリラヤ湖の情景を、ヨハネ福音書をもとにわかりやすく説明してくださったことを覚えております。
一方、静さんは声楽家として海外を含む各地で教会コンサートやゴスペル・イベント等で活躍されています。その素晴らしい歌声はそのままメッセージであると言えるでしょう。本日は、このようなご夫妻をメッセンジャーとして迎え、礼拝をささげます。どうぞご期待ください。
●10月20日 秋の特別礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
新約聖書の中に、一人の律法学者がイエスの前に進み出て、「あらゆる掟の中で、どれがもっとも大事ですか」と尋ねる箇所があります。イエスの時代に、ファリサイ人たちは、律法の規定を600余りに要約し、これを忠実に守ることで、神の前に義となろうとしました。
これを聞いて、イエスは二つの掟を示されました。第一は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)です。 第二は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という掟です(レビ記19:18)。この二つが、律法の総まとめだと言われたのです。すなわち、「神への愛」と「隣人への愛」です。この垂直方向と水平方向への愛を実践して生きることが律法の教えのすべてであると、イエスは語られました。
本日の聖書であるレビ記19章は、この水平方向への愛を、指し示す箇所です。これらの戒めを通して分かることは、ユダヤの律法は、貧しい人や弱い立場にある人に、とても優しい掟になっているということです。ここから聖書のメッセージに耳を傾けます。
●10月13日 週報巻頭言 牧師 木村一充
本日のマタイによる福音書13章のたとえ話は、パレスチナに住む農夫にはなじみの深い情景であり、実際に彼らが目で見ることができるものでした。毒麦は、農夫にとって最大の悩みの種であり、これを取り除くのに、彼らはたいへん苦労したといいます。
ここで「毒麦」と呼ばれている麦は「細麦(ほそむぎ)」と呼ばれる一種の雑草を指しており、苗の間はふつうの麦とほとんど見分けがつかず、穂が出て初めてその相違がはっきり分かるというものでした。しかも、そのころには、麦と毒麦の根が複雑にからみあっていて、毒麦を抜き取ると、よい麦まで一緒に抜いてしまうことになったのです。
細麦(ほそむぎ)の穀粒は、軽度ではあるものの、確かに有毒で、めまい、吐き気、しびれを起こし、かつ、麦の粉に少しでも毒麦が入ると、苦くて嫌な味がしたといいます。このような毒麦を除くため、打穀して製粉する前には女たちが雇われ、その手で選り分けられたということです。
この毒麦のたとえを通して、イエスは何を語ろうとされたのか、本日はこの箇所から、聖書のメッセージを聞いてゆきます。
●10月6日 週報巻頭言 牧師 木村一充