メインメニュー
集会案内

教会への地図


■主日礼拝  
毎週日曜日 午前10時〜

教会学校
毎週日曜日 午前11時15分〜
・幼稚科
・小学科 
・少年少女科  
・青年成人科

祈祷会
毎週水曜日 午前10時30分〜
                    午後 7時30分〜
       (但し、4/25午後は休会)
リンク
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-20 12:17:05 (20 ヒット)

✣ 神の召しにかえる ✣

    「おのおの主から分け与えられたに応じ、それぞれ神に召されたときの 身分 のままで歩みなさい」(汽灰螢鵐7章17節、下線筆者)。この1節だけをこの訳そのままで読むと、現代の私たちには理解しがたいのではないだろうか。
     若い頃に観たアメリカ映画、タイトルは忘れてしまったが、人種差別をテーマとした映画を観た時の衝撃を思い出す。白人至上主義者による、アフリカンアメリカンいわゆる「黒人」への、差別と暴力の問題が描かれた映画だった。「黒人」への人権侵害は神によって肯定されていることだと、暴力を正当化する人たちが、その根拠として旧約聖書の言葉をあげていた。キリスト者になってまだ年数の浅い私には、ものすごい衝撃だった。聖書には、その全体を通して「神の救い」が語られているのであるが、読み方によっては、聖書の言葉が「救い」にもなれば人を殺す「道具」にもなることを、その時知らされたのだ。その映画から、聖書の言葉を自分の都合の良い部分だけを切り取って絶対化しないことを教えられた。
     今日与えられた聖書箇所から、主が私たちに何を示しているのかを聴き、互いに語り合い聞き合うことは、教会の大切な営みなのだと思う。互いに学び合う分級の場で、十字架の主に召された者として、自分を絶対化することなく自由に語り合うことを今日もたのしみたい。

●4月22日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-13 14:42:48 (29 ヒット)

✣ キリストの土台の上に ✣

    今日の聖書箇所の前の段落で、パウロは、コリントの教会に起こった問題、すなわち「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」などと互いのグループの間にねたみや争いが絶えない問題に対し、宣教者とはいったい何者であるのかと問う。
    「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」。パウロもアポロも、それぞれがそれぞれの役割で神の働きに仕えた者でしかなく、大切なのは神であると、パウロは強調する。
    コリントの教会に見られる分派の争いから起こる混乱は、こんにちの教会にも起こり得ること。宣教活動の主体は何か。いつも自分たちの信仰を吟味する必要がある。
    「私は、私に与えられた神の恵みに従って、建築家たちのうちの知者のようにして、土台を据えた。他の者は、その上に建築するのである。しかし各自は、どのようにその上に建築するか、注意しなさい。」(汽灰螢鵐3:10、岩波訳)
    ここでいう土台とは、十字架につけられたキリストのこと。パウロは、この土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできないと、そしてイエス・キリストの土台の上にどんな家を建てるのかを問いかける。今の時代の文脈において、わたしたちは、キリストの土台の上にどんな教会を形成していくのか、一緒に考えていきたい。

●4月15日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-06 13:22:27 (34 ヒット)

✣ 神からの知恵キリスト ✣

    コリントの教会の設立者であるパウロが教会を去った後、教会内にさまざまな問題が起こり、混乱が生じていたことが手紙の内容から知らされる。中でも分派の争いや、パウロが伝えた福音とは逆の福音理解に立つ伝道者からのパウロ批判は、教会内に深刻な分断を生じさせていたものと思われる。
    パウロが、キリストの弱さを誇り、自分の弱さを誇り、十字架の悲惨、弱さ、愚かさこそが福音であると説いて教会を形成していたのに対し、後から入ってきた人たちの主張は、強いキリスト理解によってこの世的な力の強さや優秀さを誇ることであった。このような教会の状況を憂えたパウロは、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。」(汽灰螢鵐1:26)と、信仰の原点であり、人間存在の根拠であるイエス・キリストを指し示す。誇りとは何か。知恵とは何か。
    「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」。(エレミヤ9:22、23)

●4月8日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-30 17:17:08 (67 ヒット)

✣ ガリラヤでこそお目にかかれる ✣

    イースターおめでとうございます!
    イースターの朝、牧師として栗ヶ沢教会の一員となり主の復活を祝う礼拝を共にささげることができますことを感謝します。「死んだイエスが生きている」、キリスト教がキリスト教たり得るのはイエスさまの復活があってのこと。ですが主の復活をすぐに信じられるかというとどうでしょうか。
    十字架に架けられ決定的な死の中にあったイエスを神が復活させて(起こして)くださったという出来事は、わたしたち人間の知識や理解を超えており、驚きや恐れでしかありません。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。…そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。土壇場でイエスを見捨てて逃げた男の弟子たち同様、十字架と埋葬まで見届けた女性たちも結局は逃げてしまって誰にも何も言えなかったのです。人間の弱さの現実です。
    「…弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。…そこでお目にかかれる』と」。神の働きによって彼女たちの心にこの言葉がよみがえった時、彼女たちは主の愛の深さを知りガリラヤへと向かったのでしょう。
    現代の私たちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。キリストの良き知らせを携えて、復活のイエスが先に行っておられるところにここから出発です。

●4月1日 イースター礼拝 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-22 17:18:47 (70 ヒット)

✣ 反面教師バビロン ✣

    「バビロン捕囚」(BC586〜538)は、今から2,500年余り前のイスラエルの民に降りかかった災難だけにとどまらない。科学文明の恩恵のなかに生きる、私たち現代人こそ、「バビロン捕囚」の真っ只中にあると言える。「バビロン」は、神の言葉に耳を傾け神に向かわせようとする心を閉ざさせ、失望させ、神を見失わせるものの象徴だからである。私たち、特に現代の多くの日本人は、神無しでも結構楽しく、面白く暮らしている。神を必要としない風潮が、大手を振っている状況にある。
    しかし、神はその大きな愛を以って私たちにかかわろうとされる。それは私たちが、滅びの民となってはならない、神の造られた、神にあって大切なかけがえのない存在だから。ゆえに「バビロン捕囚」は、私たちにとっても必要悪、反面教師として位置づけられる。それは、私たちにとって「試練」でもある。神から離れようとする誘惑・罪に対して、自らを省み、神に立ち帰るべき「気づき」をもたらす大切な機会である。その気づきこそ、主イエスの苦しみ・愛の深さを覚えるときだ。神の配剤に感謝、感謝。

●3月25日 受難週 週報巻頭言 齋藤 隆(前・逗子第一教会 牧師)


(1) 2 3 4 ... 86 »

日本バプテスト連盟   栗ヶ沢バプテスト教会

  〒270-0021  松戸市小金原2-1-2 047-341-9459


 栗ヶ沢バプテスト教会 Copyright© 2009-