エデンの園を追放されたアダムとエバ夫妻には二人の男の子が与えられます。兄の名はカイン、弟はアベルといいました。二人は成長し、兄は土を耕す者、弟は羊を飼う者になります。二人はそれぞれの労働の成果を神にささげました。ところが、主なる神はアベルとその献げ物を顧みられましたが、カインとその献げ物は顧みられなかったというのです。なぜ、カインの献げ物は顧みられなかったのか。これにはいくつかの解釈、説明がありますが、本当の理由は分かりません。(新約聖書のヘブライ人への手紙はアベルの方が、信仰により優れた献げ物をささげたからだと説きます)カインは、自らの献げ物に対する神の対応に激しく憤りました。そうして、弟を野に連れ出し、これを打ち殺してしまったのです。
悲惨な殺人事件によって、二人の息子を失ってしまったアダムとエバの悲しみはいかほどだったことでしょうか。この事件後聖書が描く救いの歴史は、どう展開するのか。本日は、創世記4章のカインとアベルの物語を手掛かりにして神の言葉に耳を傾けます。
●6月1日 週報巻頭言 牧師 木村一充
本日のヤコブの手紙4章では、「何が原因であなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」と問いかけています。これに対して、「それは、わたしたち自身の心の中に争いを欲する思いがあるからだ」とヤコブは答えるのです。ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)憲章の前文に「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」という名言がありますが、わたしたちの心の中に生まれる怒りや敵意、憎しみの感情を抑え、赦しと和解を求めて心を開いてゆく努力が求められています。
もう一つ、ヤコブが強調するのは神の前に謙遜になり、世の友とならずに神に近づきなさい、ということです。神に近づくにはどうすればよいでしょうか。そのためには、み言葉に親しみ、神のみ旨を求めて祈り、隣人を自分自身のように愛して受け入れることが大事です。とりわけ、助けを必要としている人に手を差し伸べ、自分がしてほしいと願うことを、その人のためにしてあげるのです。キリスト者は、神に仕えるように隣人に仕えながら神に従うのです。
●5月25日 週報巻頭言 牧師 木村一充
ヨハネによる福音書5章では、イエスがユダヤ人の祭り(過越しの祭り)に合わせてエルサレムに上られた際、ベトザタの池に立ち寄られたときのことが記されています。この池には五つの回廊があり、そこに病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。
何年かに一度起こる出来事への信仰(池に主の使いが降りてきたときに水が動くことがある。その時真っ先に水に飛び込んだ者が癒されるという言い伝えへの信奉)をもって、彼らは池の周りに待機していたのです。
さて、そこに38年もの間病気で苦しんでいる人がいました。イエスはその人が横たわっているのを見、またすでに長い間病気であることを知って、次の言葉を言い放ちました。「あなたは、よくなりたい(治りたい)のか?」これはたいへん不可解な言葉です。病気がよくなることを願わない病人などどこにもいないからです。しかし、イエスはあえてこの言葉を発せられます。それはいったいどういうことなのか。本日は、このことを手掛かりにして、聖書の御言葉(みことば)に耳を傾けます。
●5月18日 週報巻頭言 牧師 木村一充
本日のルカによる福音書5章では、シモン・ペトロが主イエスの最初の弟子となるきっかけとなったガリラヤ湖での出来事が書かれています。
ペトロは、その日夜通しの漁の仕事を終え、湖畔で網を洗っていました。そこをイエスが通りかかります。イエスの周りには大勢の群衆が押し寄せていました。そこで、イエスはペトロの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すように頼まれ、舟の上から群衆に向かって神の言葉を語り始められました。話が終わると次にペトロに言われます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」それは、ペトロの意表を突く言葉でした。
ペトロはもう何十年もこのガリラヤ湖で漁師として働いてきたプロの漁師です。しかも、前夜の漁はまったく成果がなかったのです。長年の経験から言って、日が昇ったこの時間に網を打っても魚が取れるはずがありません。それでもペトロは「しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と言って網を降ろしました。すると、どうでしょう。網が破れそうになるほど魚が取れたのです。本日は、この箇所から神の言葉に耳を傾けます。
●5月11日 週報巻頭言 牧師 木村一充
モーセに率いられたイスラエルの民は正月(ニサンの月)14日にエジプトを脱出し、約束の地カナンを目指しました。それから一ヶ月が過ぎ、イスラエルの民は「シンの荒れ野」に入ります。そこは、気候条件の厳しい、砂漠の地でありました。荒れ野に入ると、共同体全体はモーセとアロンにむかって次のような不平を述べます。「われわれは、エジプトで主の手にかかって死んだ方がましだった。…あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を餓死させようとしている」エジプトでは、肉もパンも腹いっぱい食べられたのに今はどこにも食べ物がない、と不平を言ったのです。
モーセとアロンは、これを聞いて主の前に祈りました。すると、天からの声が響きます「あなたたちは、夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する」このパンこそ、「マナ」と呼ばれる食ベ物でした。それは、荒れ野の地表を覆って降った霜のような形状で、薄くて壊れやすいウェハースのような物です。イスラエルの民は、それを必要な分だけ集め分かち合って食べました。このことは何を意味するのか、本日はここから御言葉(みことば)に聞きます。
●5月4日 週報巻頭言 牧師 木村一充