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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-04-25 22:40:28 (1494 ヒット)

            陽は昇る。善き命のために
 私たちはこの世にあって、善や悪について思いめぐらせます。また、「善人」に出会っては清々しい気持ちになり、「悪人」を見ては憤ります。そして、悪には報いがあるように、悪人には裁きがあるように、と心に念じていたりします。それは人間の普通の気持ちだと思いますが、危険も潜んでいます。人間は、それらの怒りの解決のために神を登場させます。悪を、悪人を滅ぼしてこそ神である、と。いつのまにか、私たちは、悪の力とそのしぶとさの前に心を連れて行かれ、自らの心を怒りでいっぱいにしてしまうことがあります。
 そんなとき、心を神の御心に向けましょう。そして気づきましょう。どのように映ろうとも「悪人」がこの世界を決定しているのではない。神さまが、全てに先立ち、全てを決定しておられるのだということを。
 今日も、新しく陽が昇ります。善い人の上にも、悪人の上にも。善きものをお創りになり、善き一日へと私たちを招き、祝福する神の恵みは、今日も何一つ変わっていないのです。
                   ●4月25日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-04-18 20:07:15 (1430 ヒット)

                 【幸いなるかな、この道】
“  心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。”
 これに続き八つの「幸い」が重ねられていく。主イエスから従ってきた弟子たちや人々に向かって。
 しかし、これは、一般的な幸福論ではない。祝福される人間像でもない。まさにここに主イエスの道がある。これはまさに十字架と復活、十字架と神の国ではないだろうか。
 主イエスの道こそ、心底貧しく、悲しむべきものを知り、義に渇き、憐れみ深く、平和を創り出す道であった。その貧しさと悲しみと迫害は十字架において徹底的なものとなる。しかし、神はこれを慰め、これを満たし、神の子とされ、神の国のものとなされた。これがよみがえりであり、命である。
 今、主イエスは、ご自分に従う者たちに「幸いなるかな」と呼びかけられる。主の道に従うところで生じる貧しさ、悲しみ、義への飢え渇き。人間自身の手によって満たすことをせず、主イエスの道にそれを求める者は、その全てが、主なる神から満たされていく。そこにだけ、真の幸いがある。
               ●4月18日・週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-04-18 20:04:30 (1451 ヒット)

                 【みことばが支える】
 人間が人間であることを、ほんとうは何が支えてくれているのでしょう。
 人間が人間であることの基本的事実の一つは、「人間は弱く、限界をもっている」ということです。肉体を持って生きるが故に、飢え、渇き、痛み、老い、そして死にます。そこに苦しみが生まれ、悲しみが湧きます。でもそれこそが人間の証明です。「石をパンに変える力」とは、その弱さと限界からの自由を意味します。けれども、その「自由」は、悲哀を伴う人間の生の美しさと人間らしさを奪い去ってしまうことでしょう。
 人間が人間であることのもう一つの基本的事実は、「人間は交わりに生きる」ということです。交わりの本質は「ことば」です。人格のふれあいとしての「ことば」です。「パンのみにて生きる」とは、人間が、交わりによらずとも、「個」として存在し得るかのような「誤解」を意味します。しかし人間の人間らしさは、交わりの中で見いだされ、保たれています。人間の限界性と交わり性を根底で支えているものは「神さま」と「ことば」です。
                  ●4月11日週報巻頭言  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-04-04 19:47:55 (1487 ヒット)

               【復活。喜ばしい「結局」】
 主イエスに対する弟子たちの愛には野心が含まれていた。イエスへの尊敬と傾倒は嘘ではなかったが、自らの功名心が多分に混じっていた。そして、そんな弟子たちの愛は、十字架の前であっけなく砕け散ってしまった。
 マグダラのマリアら女性たちには、主イエスへの人間的愛が満ちていた。自己の野心とは無縁な深い愛である。しかし、悲しいことだが、そのような深い愛ゆえに、最終的には愛するものの墓の前に立ちつくさねばならなかった。そのように、人間の愛は、ふたつの悲しい結論を持つ。十字架の前で崩れるか、墓の前で立ちつくすかである。そして、いずれにしても、終わりを迎えてしまうのである。
 しかし、人間の愛が、つまりは人間の人生が、悲しい結論を迎えてしまう場面からこそ始まる新しい生命がある。それが、主イエスの復活であり、神のわたしたちへの愛の御業である。
 「あの方はよみがえられて、ここにはいない」。人間の「結局」が、「結局」ではない。その背後にある、神の業の「結局」を信じよう。           ●吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-03-28 20:41:46 (1525 ヒット)

            【どこまでもインマヌエル】
 「十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやる」。この言葉に、人間の「信仰」に潜む不遜と傲慢が十分に込められています。人間は、神に要求し、神を診断し、神を認定するのです。それを「信仰」だと考えています。
 もし、主イエスがあの時十字架から降りてきたら、どうだったでしょうか。
 「神の子」の力で、壮絶な苦しみと悲惨の場から離れてしまわれたなら・・・。世界は彼の力を崇拝するでしょう。しかし、罪のもがきと死の恐れを抱え込みながら生き、自らの孤独な死を死ななければならない私たちとはかけ離れた、異質な存在であったでしょう。
 人間の生の実態において、起こりうる最悪の死のすがたに留まり、人間が舐めさせられる最悪の絶望を味わい、神と人から切り捨てられた「罪人の死」を主イエスは死にました。殺される死を彼は死にました。
 主イエスは、私たちの生きる苦しみと無関係な方ではないし、私たちの死と無関係な方ではないのです。私たちのあらゆる命の場に、インマヌエルしてくださる方なのです。                       ●吉高 叶


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