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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-10 18:07:56 (1324 ヒット)

            【天を仰ぎ、地を掘り下げる】
 アブラハムの息子・イサクの人生。その労苦が「井戸を掘る」という象徴的行為にあらわされています。イサクはアブラハムから遺産だけでなく、夢や約束も引き継ぎました。そして「出発する人生」という生き方まで受け継ぎ、追体験をしていくのです。
 カナンには、アブラハムが旅路の節目に掘った井戸が、随所に存在します。けれど、イサクがすんなりとその恩恵に与ることは許されませんでした。イサクもまた、自分自身で場所を見つけ、自らの手で井戸を掘っていくしかないのです。
 妨害や横取りに合い、何度も悔し涙を流します。強国に迎合し同化してしまえば、それらの苦労から解放されるのかもしれませんが、イサクはアブラハムのたどった約束の旅路を、独自にたどり続けます。
 そのようにして、アブラハムの聞いた約束は、もはや父の夢ではなく、イサク自身の夢となっていくのです。
 しかし忘れてならないのは、人間による夢の継承の背後に、神さまの約束は生き続けているという事実です。神さまのビジョンこそが、人と人、世代と世代を繋いでいく真の力なのです。
                ●7月10日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-03 18:06:22 (1334 ヒット)

           【おののきの往路、喜びの復路】
 100歳になって、アブラハムはようやく子どもを授かります。神の召命に向かって出発して25年。やっと手にした約束への手がかりでした。イサクと名づけたこの一粒種こそが、彼の「出発する人生」の結実でした。彼はどれほど深くイサクを愛し、イサクに執着したことでしょう。
 幸福な日々を引き裂くように、突然、あまりにも過酷な神の挑戦がアブラハムを直撃します。「モリヤの山でイサクを犠牲として捧げよ」と言うのです。彼は、おののきと悶絶の夜を過ごし、暗闇の中で絶望と不条理に苛まれたのでした。
 翌朝、アブラハムは出発します。イサクを連れ、薪を積んで。イサクとの幸せな天幕にとどまらず、神の命じる場に出発します。彼は、神への出発、神への飛躍をあくまでも選び取るのです。しかしすでにその時、その道の行き着く所には神の備えと祝福が用意されていたのです。
主の山に備えあり。私たちも、常に自己の結実と執着の場から出発するように招かれています。もし出発しないならば主の備え賜う驚くべき恵みに出会うことも、また、できないのです。
             ●7月3日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-26 18:04:09 (1356 ヒット)

               【神への飛躍】
 神の召命に従って出発してから20年が経ちました。しかしアブラムには、未だに約束の兆候が届けられていません。
 「あなたを大いなる国民とする」という約束でしたのに、まだ一人の子どもも与えられていないのです。彼はもう90歳をとうに越えていました。アブラムは、信頼する僕・エリエゼルに家督を譲ることを決め、自分の夢に区切りをつけようとしていました。
 時を経て、ふたたび! 神の声が彼に届きます。「空を見上げ、星を数え、夢に信をおけ!」という声です。普通ならもう無理です。ここからもう一度夢を持つのは過酷なことですし、限界を超えています。
 しかし。アブラムは信じたのです。ふたたび夢と約束に生きることにしたのです。5節までの彼の現実と、6節の彼の信仰には明らかに「飛躍」があります。つながらないのです。線が結べないのです。飛び越えられています。でも、信仰とはこうした飛躍のことです。神の業、神の約束への信頼と跳躍です。そして神は、このアブラムの自分への飛躍のことを「義」と呼んだのです。
               ●6月26日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-19 14:58:16 (1384 ヒット)

              【出発する人生への出発】
 聖書は私たちに一つの生き方を迫ってきます。それは「断念」することと「出発」することです。自分の喜び、自分のやり方、自分の計画、そうしたものを断念しつつ、神さまの業や隣人の喜びに向かって出発する、そんな生き方です。
 聖書の登場人物のすべての人々が、この断念と出発を人生に経験しています。断念することを通して祝福を受け、出発することを通して恩寵を身に受けているのです。
 創世記12章からは族長物語といって11章までのいわゆる人類全体を根源的に扱う記述とうって変わって、神の呼びかけを聞いて出発したアブラムという人物にフォーカスがあてられていきます。アブラムの出発は、いわゆる故郷に錦を飾る立志伝でもなければ、次のステージに移る門出でもありません。目的や目標を定めて立ち上がる出発ではなく、神さまと生きる、信じて生きる、という「生き方の変換」のことです。結果、何か偉業を成したかというとそうでもありません。ただ神さまを神さまとし、自分をそのしもべとして生きたということです。彼は出発する人生の出発者です。
               ●6月19日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-04 17:57:44 (1521 ヒット)

               【求心力と遠心力】
 「バベルの塔」の物語を読んで気づかされることですが、たいへん興味深いことに、同一性や均一性による「求心力」に腐心したのは人間なのであって、神さまは逆に「遠心力」によってそれを阻止し、人間の多様性や多元性を良しとされました。考えてみれば、神さまの創造された被造物は実に多様性に満ちています。多様でありながら、互いに生命世界に参与し、影響し合っています。
 「バベルの塔」が破壊され、人間が違った言語を持たされ、異なった地域に散らされていったことを、「罰」として消極的に理解するのか、それとも「恵み」として積極的に理解するのか。そこに「人間社会」「人間関係」のイメージの違いがあらわれていくように思います。
 人間の歴史を振り返るなら、一つの民族による他の民族支配が画策されるとき、言語や文化の強要が行われたことを私たちは知っています。人間はいつの時代も、同一性による求心力を手にしたいという欲望を持っていて、それが肥大化し「有名になろう(名をあげよう)」とするのです。つまり、神になりかわって支配者になろうとするのです。そこに悲劇が産み出され続けました。同一性を志向することが、逆説的ですが、共に生きる妨げになってしまう。それが人間の深刻なパラドックスです。
 多元性、多様性へと遠心力を発揮される神さまの御業は、やはり「恵み」として理解したいと思います。
                                   ●6月5日週報巻頭言 吉高 叶


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