メインメニュー
インフォメーション
リンク
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-22 16:16:59 (1583 ヒット)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-17 16:03:20 (1531 ヒット)

ぶどう園に生きる
マルコ12:1-12

1)物語
 「ある人がぶどう園をつくり、かきをめぐらし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。」
 主人がここまでの準備をしてくださっているのです。主人は、農夫たちが働くことができるように、生きることができるようにと、その生活の環境を全て整えたのです。何もないところを開墾し、葡萄の木を植え、葡萄園にし、さらにその畑とそこで働く農夫たちを守るために隅々まで垣根を張り、しぼった葡萄汁をためていく酒船の穴まで用意し、またやぐらを立てて、その全ての準備を主人自らがした上で、農夫たちを雇い、その良い葡萄園を農夫たちに貸して旅に出た(戻っていった)と言うのです。
 農夫たちは、その整えられた葡萄園で、実る葡萄の世話をし、またその実った葡萄を収穫し、しぼり、葡萄酒として蓄えるていくのです。そうすれば良いのです。
 その季節が来たときに、この葡萄園の主人は、分け前を受け取ろうとして・つまり主人としての受け取り分を受け取ろうとして数人の僕たちを、この葡萄園に遣わしました。しかし、考えても見なかったことが起こります。信じられない事が起こり始めたのです。農夫たちは、主人(オーナー)から遣わされた召使いたちを袋だたきにし、あるものを殺し、あるものに重傷を負わせて、もちろん空手で帰らせたというのです。そのことを知らされた主人はにわかに信じられない気持ちだったことでしょう。けれども、主人は、再び前回よりも多くの召使いを葡萄園に遣わします。しかし、また同じ仕打ちを受けました。召使いたちは、侮辱され、暴行を加えられ、瀕死の状態にされたのです。
 農夫たちは、もはや強盗であり、暴徒でした。
 にもかかわらず、葡萄園の主人は、最後に我が子を、その農園に遣わすのです。息子を見れば自分自身として敬ってくれ、まさに主人そのものの意向を受けて受け取りにきたのだと、はっきりするだろうと思って、主人は息子を遣わしたのです。
 それを見た農夫たちは、それが主人の跡取り息子だと、明確に確認した上で、「あれを殺せば、この葡萄園はこれからずっと俺たちのものになる」と言って、この息子を農園の外に引きづり出して、集団リンチを加えて殺したというのです。
 何ともやりきれないたとえではありませんか。考えられないような、聞いていられないような、たとえではないでしょうか。けれども、イエス様が見る私たち人間の実際は、私たち人間の神様への態度は、そのようなものなのではないのか、と胸にささってきます。

2)主人は、なぜ息子を遣わすのか。
 それにしても、主人はどうして息子を遣わすのでしょうか。第一陣の召使いが暴行を加えられ、まさかと思って遣わした第二陣の使者たちももっと徹底した仕打ちを加えられて帰ってきたのです。もはや、農夫たちが主人をないがしろにし、反逆を企て、暴徒のようになっている、ということが明白になったのです。豊かであったはずの葡萄園は、もはや悪巧みに息巻く強盗たちの巣窟になっているのです。その危険な場所に、なぜ、主人は息子を送り込むのでしょうか。この息子が、威厳に満ち、また事実、格闘技か何かの心得があって強い男だったからでしょうか。この息子には、農夫たちがたばになってかかってきてもそれを跳ね返すだけの力があったからでしょうか。
 いいえ、そうではありません。主人がその危険地帯に息子を送り込んだのは、農夫たちと、心から、まごころを込めて、コンタクトを取りたかったからです。「葡萄酒の収穫」、つまり主人(オーナー)として納品され、儲けさせてもらわねばならなかった「葡萄酒に」こだわったからではありません。「農夫たちに」こだわったからです。農夫たちを愛していたからです。
 この主人は、農夫たちの豹変ぶりに心を痛めたのです。農夫たちの考え違いをとても心配したのです。彼ら農夫たちが、いつまでもこの葡萄園で生きて暮らしていくことができる農夫たちであり続けるために、農夫たちの心に入り込みたくて、農夫たちの暴れる心に向かい合いたくて、主人は「自分自身が向かい合う、そのようなつもりで」息子を遣わしたのです。
 主人が、「事の重大さ(異変)」に気づくのは、もはや第一陣の召使いがぼろぼろにされて帰ってきたときのことで十分だったでしょう。そして、ただ、反逆の農夫らを一掃し、葡萄酒の収穫を徹底的に回収するためならば、兵隊を雇い入れ、武装して葡萄園に乗り込んでいけば良かったでしょう。しかし、主人はそうしなかった。何故でしょう。
そうです。もともと、主人は、「自分のために」「葡萄酒のために」、葡萄園をつくったのではなく、「農夫たちの人生のために」葡萄園をつくったからでした。
 主人は、全てを準備したのです。葡萄園を整備したのです。「土地は貸してやる。自分たちの手で開墾して見ろ。ただし収穫の時期には、きちんと年貢を納めてもらうよ」と、そんな強欲な地主ではないのです。開墾から、植樹から、設備の設置まで、その全てを主人自らがおこない、そこで働きそこで生きるならば収穫の恵みに与ることができるようにして、そして、すっかり農夫たちを信頼して、その全部を託して、自分はまた自分の場所に帰っていったのです。時が来たとき、主人は、その分け前に与ろうと考えただけです。その収穫を年貢のように回収しようとしたのではありません。その葡萄園の実りを喜び、農夫たちと一緒に喜びを分け合いたいと願ったのです。主人がそのときに受けたかった喜びは、農夫たちが初の収穫を手にして、こうして雇われ収穫に与って生きることができるようになった、その事実を本当に喜んで、活き活きとしている。そんな彼らの姿を見たかったからです。それを喜びたかったのです。
 (繰り返しますが)主人が自分のために、農夫たちに葡萄園をつくらせたのではないのです。逆なんです。主人が葡萄園をつくって、農夫たちの喜びに満ちた人生を造っていこうとしたのです。そして、だからこそ、主人は農夫たちのことを心配し、農夫たちとやり直したかったのです。結びつき続けたかったです。できれば、これからも農夫たちと交わりたいのです。これからも農夫たちと一緒に働きたいのです。だから!! だから、一人息子を遣わすのです。

3)神様の目的は
 わたしたちの神様は、わたしたち人間を通して、何かご自身(神様自身)にとって有益なものを生み出すように期待しているのではありません。神様は、わたしたちという人間そのものを愛しておられるのです。神様は、私たちに、「ちゃんと良いぶどう酒を絞り出せ。しっかりと良いぶどう酒をつくれ」とおっしゃっているのではないのです。働くこと、生きることを喜ぶことができる「嬉しい農夫になりなさい」「喜びの農夫になりなさい」とおっしゃってくださっているのです。神様の命の創造の目的は、私たちが神様の備えてくださった世界で、私たち自身が満たされ、感謝をおぼえ、その感謝を神様と共に分かち合い、守られ続けて生きる。神様と私、主人と農夫の交わりと分かち合い、その喜びに満ちあふれた関係を目的としてくださっています。
私たちは、神様が備えて下さったものを、神様がしっかりと整えてくださったものを、託され預けられて、人として生きているのです。
 しかし、私たち人間は、そのことをすぐに忘れてしまうのです。忘れてしまうというよりも、その預けられたものを横取りし、それがあたかも最初から自分のものであり、いつまでも自分のものであると、そうしたいのです。そのように迷い、そのように悪巧みはじめるとき、感謝が生まれるはずの葡萄園は、策略と暴力の広場と変わってしまいます。初めのうちは、主人に対して結託して刃向かっていた農夫たちは、やがては、お互いを傷つけあい、だまし合い、奪い合う間柄になっていくでしょう。それが、人間の現実です。人間の歴史の実相なのです。神様から預けられたいのち、預けられた人生を、全て握りしめてしまおうとすることは、実に苦しみの始まりなのです。
 しかし、どんなにあがいても、わたしたちは主人ではないのです。どんなに人間同士が結託しても私たちが神になることはできないのです。どんなに暴れてみても、抗ってみても、そして主人の接近を拒んでみても、葡萄園は主人のものなのです。私たち人間が生きているその事実、それを見つめるならば、その命のために与えられている環境は、自然界の不思議な姿にしても、自分自身の肉体そのものの存在の不思議にしても、神から来たのであり、神に属したままなのであり、そして神に帰るしかないものなのです。
 ですから、私たち「託された農夫」の幸せとは、「託されたという感謝」から離れないことにあります。主人が、私の存在を喜んでいてくださり、私の働きを喜んでいてくださり、たとい私がたくさん葡萄汁を絞り出すことができた時にも、逆に、思うように収穫を得ることができなかった時にも、私が、その農園で農夫として生かされていることを感謝して暮らしているならば、そのことそのものを喜んでいてくださる主人がおられる、それを忘れないことです。これが人間の幸いなのです。しかし、もし農夫が、農夫としての素朴な喜びから離れたときに、農夫はとたんに苦悩の淵に陥り、そして自らを破壊してしまうのです。

4)「おとうさん、赦してあげてください」
 イエス様がこのたとえ話を話された時、それはすでに、神の一人子がこの世に出向いてきているその時でした。主人が一人子を葡萄園に遣わした、まさに、その出来事そのものでした。そして主人の子、神の子は、農夫たちを憐れみ、またただし、招き、主人の愛と招きを受け取るようにとのべ伝えます。けれども、人々(この世)は、その一人子をあざけり、憎み、捕らえ、外に引きづりだし、集団リンチを加え、十字架に張り付けて殺すのです。そして、「お前が本当に主人の息子なら、自分を救って見ろ、そしておれたちのために、もっと良い贈り物を持ってきてみろ、そうしたら信じてやる」と罵ったのです。
 貧しい者たちが虐げられ、病人は放り出され、偉い人々がいばり、剣と槍とがものを言う、利権の前に真理はねじ曲げられ、神の子が処刑される、それが、主人が造ったはずの、あの素晴らしい葡萄園の「なれの果て」でした。それがゴルゴタの風景なのです。その暴虐無人な農夫たちの真ん中で、そして荒らされてしまった葡萄園の真ん中で、主人の一人息子はこう叫ぶのです。絶命しながらこう叫ぶのです。「お父さん、この人たちをお赦しください。自分が何を言っているのか、自分が何をしているのかわからないのです。お父さん、赦してあげてください」。
 この一人子の絶命の祈り。ここまでして、主人は農夫たちの「立ち帰り」を求めたのです。御子キリストの絶命しながらのとりなしと赦しの祈り。ここまでして、神様は、私たちを求めておられるのです。

5)血のしみ込んだ農園に生かされて
 「家造りらの捨てた石が、隅の頭石になった」。
 農夫たちが殺した主人の一人息子の、その引き裂かれたいのちが、新しい葡萄園の土となります。そして、御子イエス・キリストが新しい土となっている「新しい農園」に、私たちは招かれています。私たちは、赦され、招かれ、その上、あらためて大きな賜物を託され、預けられて、「ここ」に生かされています。再び預けられた新しい農地には、遂に赦しまでもが加えられました。
 私たちの人生、私たちが踏みしめているこの地面には、一人子キリストの血がしみこんでいます。愛と交わりのために流された血が・・・。私が、信頼され、預けてさえしてくださった農夫として、ここで、この自分を喜んで生きるようになるために! それだけではなく、農夫と農夫が共に分かち合って、いつまでも共に生きることができるようになるために! そのために流された一人子の血が、私たちの足下には、しみこんでいます。
 私たちの人生には、葡萄の木が植えられています。必要な時に実りをもたらす葡萄の木が。私たちの周りには垣根がめぐらされ守られています。そして、私たちは、値なき者にもかかわらず神から信じられています。そしてたっぷりと預けられています。
命を預けられています。人生を預けられています。世界を預けられ、環境を預けられ、仕事を預けられ、家族を預けられています。それを取り囲むようにして、キリストの赦しととりなしさえもが、垣根となって打ち立てられています。憐れみと招きの世界なのです。私たちが生きるのは、憐れみと招きの世界、神の葡萄園なのです。葡萄園に生きることができる。何と、ありがたいことではありませんか。

                                                             了


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-07-09 11:59:00 (2240 ヒット)

サウルとダビデ 憎しみと寛容
サムエル記上26:6−25

1)ここまでのあらすじ
ゴリアトを倒し、ペリシテとの戦いに決定的な勝機をもたらしたダビデは、歓喜をもってイスラエルに迎えられた。
「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」子どもたちまでもが、この賛歌を歌ってダビデを讃えた。当初はダビデを誇らしく思い、側近に招いたサウル王の心に嫉妬と憎悪がしのびこんだ。サウルはふたたび癇癪と凶暴を纏っていった。
サウルは、ダビデを亡き者にするために激戦地を選んでは、繰り返しダビデに出兵命令を下した。しかし主の霊がダビデを守り、その都度、ダビデは戦果を手に凱旋するのだった。高まり続けるダビデ人気。ついにサウルは自分の側近を使ってダビデ暗殺を画策するようになった。
ダビデはサウルの元を離れ、逃げた。サウルを憎むことができなかったからである。サウルの息子ヨナタンは、荒れ狂う父と、愛するダビデへの狭間で苦しみながらも、ダビデと密かに通じ、逃亡を助け、また、父親に対しては執り成し続けたのだった。
ダビデはヨナタンだけでなく何人もの理解者にかくまわれ、助けられながら逃避行を続けていく。そんなダビデのもとに、イスラエルの各地から、彼を慕う強者たちが集まってきた。日増しに人は増え、やがてその数は600人にも膨れあがっていった。
サウルのダビデへの敵意は執拗に燃え、もう後戻りができなくなっていた。彼は精鋭3000人を率いてダビデ討伐に出発し、ダビデたちが潜んでいるジフの荒れ野に接近した。「なんとか、いくさになることを回避できないのだろうか」と、ダビデは苦しんだ。
ダビデに従った者たちは誰も戦闘能力が高かった。やすやすと、敵に気づかれることなく、サウルの本陣の寝所にダビデを案内してみせた。「今、ここで、サウルを殺しましょう。あなたの労苦は今夜終わります。そしてあなたこそ王となるのです。」
しかし、ダビデは首を横に振るのだった。「それを決めるのも、なさるのも主である。サウルも一度は油注がれた人だ。私が、彼を殺すことは、たとえできても、してはならないことなのだ。」
その夜、ダビデは、サウルの枕元の水差しと槍とを持ち帰ることだけにとどめ、サウルの命を主に委ねたのであった。それはまた、自分の命と人生をも、主に委ねた夜であった。
                              以上、週報に掲載

2)葛藤の夜
ダビデの心は揺れていたと思います。ぎりぎりまで、どうするべきか、苦悩していたと思うのです。
サウルの憎しみを知ってからこれまでの間、ダビデは「どうしてこんなことになるのか」と運命を呪いながら、長い逃亡生活に身を横たえてきました。サウルに何度も何度も命を狙われる身の上。もう何年も、安らかな眠りにつけないできた自分。今回も、3000人の精鋭部隊を引き連れて自分を討伐しに、このジフの荒れ野まで追撃をしてきたサウル王。
彼は、側近のアビシャイと共に、月の光の中、崖をよじ登りました。そして闇夜をついて、サウル王が眠る本陣にたどり着きました。サウルを守るようにして多くの兵が取り囲んで寝ている、その隙間を塗って、忍び込むことに成功しました。
いま、自分を殺そうと執拗に追跡をしてきた恐ろしいサウルが、足下に眠っているのです。アビシャイが、ささやくのです。
「ダビデ様、千載一遇のチャンスが訪れました。神が、サウルの命を私たちに与えられたに違いありません。サウル王の横に彼の槍が立てられています。この槍で一突きにサウル王をしとめましょう。あなたが躊躇するなら、この私が、いま彼を突き殺してみせます。さあ、一思いにやりましょう。」
確かにアビシャイの言うとおりです。いま、ここで、一思いにサウルを殺すなら、長年自分を責め苛んできた元凶の元を断つことができる。しかし・・・。ダビデは、そこで苦悶したのではないでしょうか。ぎりぎりまで苦悩したのだと思います。
けれどもダビデは、そこで思いとどまりました。
「アビシャイ。殺してはならない。このサウル様も、主なる神さまがかつて油を注がれて、王に立てられた人だ。この人を立てたのも神。だから、この人を倒されるのも主なる神だ。主の油注がれた人に、わたしが手を下しては、やはり、ならないのだ。」
ダビデは、今や自分の手の中にあるサウルの命を、もう一度、神さまの手に返したのです。
私は、ここにサムエル記全般を通じた主題があるように思われます。
それは、「歴史を動かすのは主なる神であって、決して人間の手によるものではない」という主題です。
先週は、まだ少年だったダビデがペリシテの巨人ゴリアトを討ち取る場面を読みました。あの記事(サム17章)の中でもっとも輝いているのは、ダビデがゴリアトに向かい合ったときに語った言葉だと思います。
「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の何よって立ち向かう。」
ダビデはそういって、羊飼いのままの出で立ちで、丸腰のままゴリアトに向かっていきました。おおよそ武器とは言えぬ、一粒の石のつぶてをもって、神はゴリアトを倒されたのでした。
今のダビデにとって、サウル王はゴリアト以上の恐怖であり、彼のつまづきの石、彼の前に立ちはだかり続ける壁であります。その命を手中にできるところで、ダビデは再び神の名によって、全てを神に返すところに立ち返ったのでした。繰り返します。「歴史を動かすのは、主なる神であって、決して人間の手によるものではない。」これが、サムエル記全体の主題なのです。
このようにして、この夜、ダビデは、白黒をはっきりとつけるべきかも知れない場面で、人間の手で、白黒をつけないで、神の手に委ねるという第三の道を選んだというのです。
それは同時に、サウルの命を神に委ねたのと同時に、自分の運命をもやはり神の手に委ねたダビデの信仰による選び取りの夜であったと言うことができます。

3)矛盾
皆様は「矛盾」という言葉をご存じだと思います。矛盾という言葉は、ご存じ「韓非子」に出てくる逸話です。
「どんな矛でも貫くことができない盾」と「いかなる盾をも貫くことができる矛」を二つ並べて売っている武器商人がいて、その前を通りかかった一人の人が、「この矛でその盾を突いたらどうなるのか?」と聞いたら、商人が絶句した、という話です。小学校の時に習って、なるほどと思って笑いました。けれども、この「矛盾」とは、ナンセンスでばからしい事を、ただばからしいと笑い飛ばす意図ではなく、むしろ、韓非子は、こうした白黒突かない、矛盾に満ちたことが、この世の、人間の世の、深い真実としてしばしば存在していることを語っているのだと思うのです。特に韓非子は、治世について、支配についての教科書の一巻として書かれたものです。武術、武道というものには、勝利して負けるということがあり、また敗北して勝つということがある。不思議ですが。また、人間の対人関係には、負けるわけにはいかない、さりとて勝ってしまうわけにもいかない、という局面があるのです。なんとももどかしいですが。
勝って失うものがあり、負けて得ることがある。矛と盾は、それぞれ攻めと守りの徴ですが、徹底的な攻めがただそれだけで勝敗を決するのでもなく、徹底的な守りがただそれだけで勝敗を決するのでもない。何物をも貫くことが出来る矛を持っていると人が言うとき、必ず同時的に、何事にも貫かれない盾がある、ということを言ってしまっていることになります。何事にも貫かれない盾を持っていると言ってしまえば、何物をも貫くことができる矛を持っていると言ってしまっていることなのです。そこには、不思議な、矛盾が存在する。白黒はっきりしないのだけれども、その矛盾を知り、その不思議さを知ることの大切さを、勝ち負けを人間が握りしめてしまうことがほんとうはできないのではないかという問題を、この「矛盾」という逸話は教えているのではないか、と思うのです。繰り返しますが、矛盾はだめなのではなく、矛盾こそが多くの場合真実である。その矛盾の狭間をいかに生きるか、矛盾の間をいかに受けとめるか、です。
これを信仰の決断の問題に置き換えてみると、人間が白黒をはっきりさせるのではなく、ダビデのように、第三の道(神の手に委ねる道)を選び取るという生き方がある、という
ことです。
イエスも、「右のほっぺたを打たれたら、左のほっぺたを向けてやりなさい」と言います。「復讐は神の手に委ねなさい」ともおっしゃる。それは、まさに、神の手に私と相手を委ねよ、というのです。ここで勝つことが勝ちではなく、ここで負けることが負けではない。むしろ、ここで勝とうとするときに人間は負けているのかもしれない、のです。

4)和解
理屈っぽい話になりました。ダビデの物語にもどりましょう。
ダビデは、その手でサウルをしとめることを止めます。ただし、サウルを説得するための証拠として、眠っていたサウルの傍らに突き刺してあった槍と、枕元の水筒を持って帰るのです。
そして、もう一つの山の頂に立って、サウルの陣地に向かって呼ばわるのです。サウルの側近で、イスラエル一の武将として知られるアブネルの名前を呼んで。
「アブネルよ。お前たちは一晩何をしていたのだ。王を殺すための侵入者が、お前たちの真ん中まで立ち入っていたことに気がつかなかった。お前たちは、主が油を注がれた王を守ることができなかったのだ」と。
その呼び声がダビデの声だと真っ先に気づいたのはサウル王でありました。「その声はダビデか」と問い返す王にダビデは、自分にはあなたへの殺意が無いこと、そして、あなたがわたしを憎むことを自分はほんとうに悲しんできたこと、を訴えるのです。ダビデは言います。「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」
サウルはこの時、ほんとうに討たれてしまったのです。自分を殺すことができたのに、殺さなかった。そしてダビデは、その全てを主の手に委ねた、ということを。
サウルは悟るのです。ダビデの神に対する信頼を。そして神に信頼して生きることができなかった自分を神が捨てられるのは当然だったということを。そう、自分は、神に見捨てられたと神を恨み、疑心暗鬼が自分を支配してきたが、そうではなかった。私自身が、神に背き、私自身が神を退け、私自身が神に頼む生き方を忘れてきたのだ。
イスラエルをまことに導くものは、主に拠り頼むもの。イスラエルの王としてほんとうにふさわしいのは、この男、ダビデである。
サウルは、まさにこのことが腑に落ちたのでした。「わが子よ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」
サウルは、ダビデに祝福の言葉を残して、都に帰って行ったのでした。

この物語は、追いつめられたダビデが、その劣性をはね除けて逆転したという物語ではありません。そうではなく、一つの和解の物語です。油注がれた者と油注がれた者とが、主の御名によってそれぞれ退き、神の手に自らを委ねた、共に神に拠り頼むことへと導かれたという和解の物語です。もちろん、ふたりはこの先、二度と顔を合わせることはありません。この後、二人で一緒に戦った、というのではない。しかし和解の本質とは、それぞれが神の手に戻されるということです。ダビデとサウル、サウルとダビデ。この両者が、雌雄を決して剣を交わすことがなかったこと、ここにサムエル記の極めて重要な証言が残されていると言って良いでしょう。

5)十字架しか、ない
「矛盾」の話にもう一度戻ります。
わたしたちが仰ぎ見る十字架のイエス。彼は、矛盾の真ん中で苦しみ、矛盾の真ん中で祈ったのです。
神は正義なる方です。神が徹底的に義なる方であるならば、この世の罪は罰せられ、この世の罪人は全て裁かれ抜かれなければなりません。そして、誰がその裁きから逃れることができましょうか。
神はしかし愛なる方です。神が徹底的に愛の方であるならば、全ての罪人は赦されるべきです。しかし、それでは神の義はどうなるのでしょうか。
十字架は、ただの愛ではありません。神の義による裁きがあの十字架の苦しみです。しかし、十字架は同時に、私たちの赦しの愛に満ちています。私たちの裁きの場に、神ご自身と言っても良い・神の一人子が張り付けられ、そこで私たちの罪はあがなわれ、そこで罪人たる私たちは赦されている。
この矛でこの盾を突いたらどうなるのか? 神の義で神の愛を突いたらどうなるのかという問いなのです。私たちが赦されるために、神はその一人子を十字架におかけになった。裁く場面で赦すために、愛する場面で神の義を明確にするために、神は一人子を十字架に掛けられたのです。それしか、無かったのです。
私たちが赦される。そこには、苦悩する神がいます。神がそんな思いまでしてようやく赦されて生きるのが、私たちなのです。そのキリストを身に帯びて生きる。
私たちは、どうしても目先の白黒をつけようとする、この人間世界の中で、神の義と神の愛を祈って生きます。そのためには、最終的に、すべてを神に帰していく信仰で、生きていくしかないのです。
私があなたの命を大切にしたようにし、主もわたしの命を大切にしてくださいますように。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
これが、わたしたちの祈り。これがわたしたちの生き方なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-16 13:36:06 (1445 ヒット)

         【求められなかった神】サムエル記上8:1−22
ある日、部族の長老たちがサムエルのもとに集まってきた。彼らの要求は二つ。サムエルの子どもたちをリーダーには担げないということ。そして、新たに国王を立ててくれということであった。生産力をあげ、軍事力を増し、近隣諸国に拮抗できる力を常備したいというのだ。
サムエルは深く躊躇した。イスラエルの王は、神その方ではないか。神のみを支配者として生きてこそ、歴史の中で格別に憐れまれたイスラエルの本義を現せるのではないか、と。しかし民は、サムエルの説得を拒絶した。「どの国も、王を持っている。自分たちも、あたり前の国家になりたいのだ」と。
そもそも、イスラエルは、王を持つエジプトの圧制と苦役にあえぐ中から助け出され、十戒を中核とする神の戒めによって生きる民へと招き出された。しかし民が認証したのは、神の慈しみではなく「人間の力」の方であった。人間の忘却と誤解のなんという罪深さよ。うなだれるサムエルに、神は語った。「王をもってみて初めて、それがどういうことなのかを民は悟るだろう。彼らの願いのままにせよ」と。
●6月17日週報巻頭言  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-11 13:30:28 (1412 ヒット)

             【ポジション】サムエル記上3:1−18
サムエルは、乳離れとともに母の手を離れ、祭司エリに預けられました。ある夜、幼いサムエルに神が初めて直接呼びかけられます。サムエルへのファースト・コンタクトです。サムエルは、エリに教えられた通りに呼び声に向かい合います。「僕は聞いています。主よ、どうぞお語りください。」
これが「預言者(神の言を預かる者)」の全てです。神の言の受け皿となり「聞きます」「お語りください」から始めていく、それが預言者の構えです。
ファースト・コンタクトは常に神からです。そして人間のファースト・ポジションは、受け皿であり、受信機であることです。
ところが、年端もいかないサムエルに、いきなり語られた神の言は、祭司職にありながら神を侮っていたエリの息子たちへの裁きの言葉でした。しかもその内容を、恩師エリに報告しなければならないのです。厳しい内容、苦しい仕事。幼いサムエルの心は、いきなり引き裂かれそうになります。けれども、それが預言者です。受けた言を、人間的な思いを排して語り伝えなければならない。これが預言者のセカンド・ポジションです。
●6月10日週報巻頭言 吉高 叶


« 1 ... 119 120 121 (122) 123 124 125 ... 149 »

日本バプテスト連盟   栗ヶ沢バプテスト教会

  〒270-0021 千葉県松戸市小金原2-1-12 TEL.047-341-9459


 栗ヶ沢バプテスト教会 Copyright© 2009-