本日は、日本バプテスト連盟に関わる3つの神学校の働きを覚え、神学生たちの学びを支援するために、全国壮年会連合の呼びかけに応え、神学生を支援するための活動をおこなう8日間の初日に当たります。日本バプテスト連盟には、現在315の教会と伝道所がありますが、その中で無牧師の教会が30以上あります。そのような教会・伝道所で働く献身者養成のための学びの場として、これらの神学校があります。そこは、多くの献身者にとって自分の信仰をひとたび壊される場所であり、さらに復活の主イエスのように、再び立ち上がる場所でもあります。
全国壮年会連合は、このような神学生たちを経済的に支援するために立ち上がりました。具体的には、神学生たちの授業料のみならず、書籍代や生活費にいたるまで奨学金というかたちで支援することを考えたのです。本日は、そのためのささげものを呼びかける主日です。
本日は同時に、「沖縄の日(命どぅ宝の日)」でもあります。沖縄戦がどれだけ悲惨な戦いであったのかを覚え、心の中に平和の砦を築く日として、この日を心に刻みたいと思います。
●6月23日 神学校週間礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
本日のヤコブの手紙4章1節以下では、なぜ人間相互の間で争いが起きるのかという問題に対する答えが書き記されています。ヤコブによると、それは「あなたがた自身の内部に争い合う欲望があるからだ」と言われます。
多くの人は、できれば隣人と平和に過ごしたいと願うものです。ところが、それにもかかわらず、どうしても手に入れたいものが生じると、それを手に入れようとして競争相手を屈服させるために争いや戦争が起きるのです。その根本原理は、いつの時代にも変わりありません。いまだ、戦争終結の道筋さえ見えないウクライナ戦争、あるいはイスラエルによるガザ地区への侵攻を見ると、それらは共に「領土」をめぐる争いに端を発しています。土地に対する執着を捨てきれないのです。
このような「争い」から自由になるために、ヤコブは「神に服従し、悪魔に反抗しなさい」と勧めます。神に心から従う者となるためには、私たちが正しい祈りをもって神に近づかねばなりません。本日はこのヤコブ書から、メッセージに耳を傾けます。
●6月16日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
主イエスが語られたたとえ話の中で、死んだ後の世界が語られているものが一つあります。それが本日の「金持ちとラザロ」の物語です。ラザロは、全身にできものができていた貧しい病人でした。施しによって生きるほかないこの人は、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの庭先に横たわり、その食卓から落ちる残飯で腹を満たし、命をつなぐ日々を過ごしていました。金持ちも、ラザロを追い払うことはしませんでした。ユダヤ人の家庭に生きてきた者として、律法が説く貧しい者への施しの精神を持っていたのです。
やがて、ラザロもこの金持ちも死にました。金持ちの方は「死んで葬られた」とあることから、丁重な葬儀がおこなわれたことを示しています。ラザロが死んだ時は、葬儀さえなかったのです。
ところが、天に上げられたあとの二人の立場は逆転します。ラザロは、父アブラハムの胸元で安らいでいました。一方、金持ちは炎の中で、もだえ苦しんでいたというのです。本日の物語は何を伝えようとしているのか、そのことを御言葉(みことば)を通して共に考えます。
●6月9日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
この朝は、イエスが語られた「神の国のたとえ」を共に分かち合います。主イエスは、神の国を語る際に、地中に蒔かれた種が、蒔いた農夫の働きや努力とは関係なく、「ひとりでに」実を結ぶということを最初の例として挙げながら、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」といいます。それは、大地がもたらす「豊かな恵み」の結果であり、決して農夫個人の功績によるものではありません。
さらに続けて、イエスは「からし種のたとえ」を語られます。神の国はからし種のようなものであると言われるのです。この「からし種」は「黒辛子」と呼ばれる地中海、西アジア地方を主産地とする香辛料で、マスタードの原料になるものです。その種は、直径が1ミリにも満たないもので、イスラエルの野菜の中で、種としてはもっとも小さいものでした。ところが、それが地中に蒔かれて成長すると、何とその葉の陰に、鳥が巣を張るほどの大きさになると言うのです。本日は、この二つのたとえを通して、神の国とはどういうものかを共に分かちあいます。
●6月2日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
この朝与えられた聖書箇所であるマタイによる福音書6章は、5章から始まる山上の説教のちょうど真ん中に位置していて、「空の鳥、野の花を見よ」と主イエスが語られたところです。
「空の鳥」と聞くと、私たちは通常ヒバリや山鳩のような鳥を想像しますが、並行記事のルカによる福音書12章をみると「烏(からす)」となっています。この鳥は旧約聖書では汚れた鳥とされ、食べてはならないとされていました(レビ11:15)。
また「野の花」も他の翻訳にあるような「百合の花」などではなく、アザミのようなどこにでも見られる雑草のことを指していたと考えられています。
だとすると、主イエスはここでロマンチックな感傷のもとに、日常生活の忙しさからいったん離れ、広々とした空を飛びまわる鳥や草原で美しく可憐に咲く花に、しばしの間目を注ぎなさいと語られたわけではないことになります。「空の鳥、野の花を見よ」という主のお言葉の真意がどこにあったのか。そこに注意しながら、主イエスが語られた神の国のメッセージに耳を傾けたいと思います。
●5月26日 週報巻頭言 牧師 木村 一充