メインメニュー
インフォメーション
リンク
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-29 17:43:06 (1096 ヒット)

✣ あなたの罪は赦された ✣

    「あなたに言いたいことがある」(ルカ7:40)。イエスさまは信仰熱心な人シモンに対して、「あなたは“神の愛(アガペー;無償の愛)”を本当に知っているのか」と厳しく告げました。
    それは、シモンの家でイエスさまを囲む食事の席でのことでした。ある女性が加わったとき雰囲気が激変します。彼女は突然、イエスさまの足を自分の涙でぬらし、髪でぬぐって香油を塗りました。主催者シモンは、イエスさまがこの女の罪を見抜き、戒めると期待しました。神の教え(律法)には、汚れた者に触れるな、あなたが汚れるからとあるからです。罪に汚れた女は排斥するべし、この女にイエスさまと交わる資格はない、シモンはそう思ったのです。
    ところが、イエスさまは罪深い女を受入れ、しかも彼女はイエスさまがメシア(救い主)だと知っているが、信仰熱心なシモンは知らない、と語りました。居合わせた人々は、皆、驚きました。
    聖書はこの女性が抱える罪について沈黙します。大切なことは、過去ときっぱり決別して未来へ向かう、この視点です。イエスさまの宣言「あなたの罪は赦された」は“神の愛(アガペー)”です。彼女の新しい人生は“イエスの十字架”が保証します。

●2月1日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-23 14:43:39 (979 ヒット)

✣ その幸いを問う ✣

    「貧しい人々は幸いである」「今飢えている人々は幸いである」「今泣いている人々は幸いである」(ルカ6:20-21)。
    非常に挑戦的な宣言です。貧しい人、飢えている人、泣いている人のどこが幸いだというのか。イエスさまは弟子たちに何を教えたのでしょうか。
    『福音の喜びは、資格のない者が資格のある者とされるところにある。ユダヤの国で貧しい人というのは、少なくとも神から祝福された者ではない。…神から遠い存在であり、資格のない者…そういう人たちを慰め…満ちたらせるために、イエスが来られたところに福音がある。神が資格のない者を救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったがゆえに、貧しい人たちは幸いなのである。逆に、喜んでいる者…満ち足りている者…笑っている者はなぜわざわいなのか…その人たちのために来てくださったイエスを受け入れず、福音を聞かないから…神の国の恵みにあずかることができない…。』(榎本保郎著・新約聖書一日一章113頁より)。
    イエスさまが来たことによって、人の常識を揺さぶる『新しい世界』が始まった。しかし、その代価として、罪のないイエスさまは、罪人のために『十字架』で死んだのです。

●1月25日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-22 21:00:00 (1817 ヒット)

✣ イエスに従う ✣

    イエス様は世の中で、唯一罪のない人間であり、同時に人間の罪を、背おって十字架につけられた王であることを知りました。
    不思議な気持ちになりました。他人をゆるす心がめぐみだと思いました。前は妹と外へ出るのも恥ずかしかったけれど、それからはホットネットと言うボランティア団体の食事会に仲よく二人で行くようになりました。
    イエス様のなさる十字架のみ業によって、大切にしてきた経験も、プライドも、すべて捨てる事になりました。
    私の生活はイエス様を真ん中にするものとなりました。
    これからもイエス様にしたがっていきたいと思います。

●1月18日 週報巻頭言 小茂田 勉

*当日は、小茂田勉兄、面川正史兄、両名により、証しが語られました。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-08 19:35:53 (1021 ヒット)

✣ その言葉には権威があった ✣

    昔、人々は、大地は不動と考えました。地球は宇宙の中心にあり、太陽や月、その他の星は地球の周りをまわっていると思っていました。実際、今でも外へ出て夜空を眺めれば、月や星が地球の周りをまわっているように見えます。しかし、中には夜空を不規則に動く星があります。それは惑星(水星・金星・火星・木星・土星)です。不規則な動きに目をとめたのが、コペルニクスとガリレオです。彼らは注意深く観測を続け、やがて不動と信じられていた地球が、動いていることを発見しました。ガリレオは木星観測から、そこに太陽系のひな形を発見しました。また、彼は土星の輪も発見しました。
    今、天動説を信じて、「地球は宇宙の中心にある」などと言う人はいません。地球が太陽の周りをまわっていたのです。かつて、ガリレオに「異端」の烙印を押したカトリック教会も、数百年を経て過ちを認め、ガリレオの名誉を回復しました。
    では、キリスト教が間違っていたのでしょうか?そうではありません。人が、自分の考えにこだわり、“自己相対化”出来なかったからです。同じ間違いは、今でも起きます。
    キリストの十字架に対する“謙遜”を忘れないようにしましょう。自分を“謙遜”にする方法を知っている人は幸いです。

●1月11日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-01 18:27:37 (1022 ヒット)

✣ あたりまえを整える ✣

    キリストは、力づくで無理やり人を回心させたりはしません。人が回心するのは“御言葉”が心に響いたときです。“御言葉”が心に響くと、その人に祈る心が与えられます。でもその時、祈るか祈らないかを決めるのは、その人自身です。その意味で、信仰における「人間の主体性」は消えません。
    実際に祈ることを選び取った人は、祈ったあと、行動へ促されます。ここでも、行動するか、しないか、どちらを選ぶかは、その人が決断するのです。決断できない場合は、更に祈って、それが間違いなく“天からの促し”であると確信するまで祈るのです。ここでも信仰における「人間の主体性」は消えていません。
    神さまは、“祈り求める者に門を開く”“万事を益とする”と聖書に記されています。しかし、「はい」と素直に従えないのが私たち「罪人の現実」です。私たちが「主体性」をもって決断しなければ何事も先へ進みません。神さまが手とり足とりしてくださる時もありますが、それはまれなことです。信仰とは基本的に“神の絶対恩寵”ですが、「人間の主体的応答」なしには成立しないのです。
    聖書のことばが心に響いたとき、それを心の引き出しにしまい込むのではなく、その感動を誰かに知らせたり、実際に行動してこそ「信仰」です。素晴らしい出来事が起きるのはそういう時です。

●1月4日 週報巻頭言 山田 幸男


« 1 ... 95 96 97 (98) 99 100 101 ... 149 »

日本バプテスト連盟   栗ヶ沢バプテスト教会

  〒270-0021 千葉県松戸市小金原2-1-12 TEL.047-341-9459


 栗ヶ沢バプテスト教会 Copyright© 2009-