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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-05-21 19:19:52 (1151 ヒット)

 ✣ 聖霊に促されて ✣

    きょうは聖霊降臨日(ペンテコステ)です。今から二千年昔、エルサレムで心を合わせて祈る120名ほどの人々が、“上からの力(聖霊)”に満たされて、自分の足で立ち上がり、自分の言葉で福音宣教(伝道)を始めました。こうして現在の教会の原型が誕生しました。“キリスト復活(イースター)”から数えて50日目の出来事です。50番目のことをギリシア語で『ペンテコステ』といいます。
    伝統的な教会暦によると、『ペンテコステ』から『アドベント(待降節)』の前日までが“聖霊降臨節”とされています。代々のキリスト教会は、この期間に“伝道”をテーマとして祈り、福音宣教と、神と人とに仕えること(奉仕)に励みました。教会暦に従えば、今年の“聖霊降臨節”は、きょう(5/24)からクリスマス準備に入る前日(11/28)迄です。
    バプテスト教会では、教会暦をあまり意識しませんが、教会活動にメリハリを持たせるためには、大切であると私は考えています。
    “聖霊”は風にたとえられます(ヨハネ3:8)。風は、見ることも、つかむこともできません。しかし、風は音を立てたり、物を舞い上がらせるなど、現象として認識されます。“聖霊”の働きも同じです。人々が心を熱くされて神の愛を語り出す。実際、伝道し、奉仕している。これが“聖霊”の働きです。

●5月24日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-05-14 15:57:46 (1221 ヒット)

✣ 恐れるな〜わたしがあなたと共にいる ✣

    かつて冷凍食品会社に勤めていた頃、スーパーマーケットの関係者から、生鮮食品売場の野菜や果物は、きれいで見かけの良いものから売れるという話を聞きました。虫が食ったり、かたちの悪い商品は売れ残ってしまうので、なるべくきれいなものを揃(そろえ)たい。その結果、ワックスをかけたり、薬品を使用して、野菜や果物に化粧せざるを得ないのだ、というのです。
    その当時、私はとても驚きました。自然に成長した野菜や果物が、すべて見てくれが良いというのは、むしろ不自然です。虫が食ったあとがあるのは、「おいしさ」と「安全性」の証拠です。自然に育てば、同じ種類の野菜や果物でも、形の大小、色合いの違いが生じるのは当然です。形は悪くても中身がしっかり詰った野菜や果物はいくらでもあります。実際、そうなのです。
    ところが、いざ商品の前に立ったとき、無意識のうちに見てくれの良い方に手を伸ばす「私」がいる…。当時、バプテスマを受けて間もなかった私は、“神の恵み”について考えさせられました。普通に考えれば、「かっこう悪い」「嫌だなあ」と思ってしまうような所に、案外、“祝福”が詰まっているのかもしれない…。神の力の“ダイナミック”さに目を開かれました。

●5月17日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-05-07 19:41:57 (1096 ヒット)

✣ 挫折から栄光へ ✣

    私たちが暮らす現代の日本では、キリスト者は人口比1%と言われています。日本人百人中に、クリスチャンは1人しかいないということです。厳しい現実です。
    きょうの聖書箇所(使徒17章)に記された使徒パウロの“アテネ伝道”は、伝道の行きづまりに悩む私たちに、二千年の時を超えて貴重なヒントを与えています。
    アテネ(現代のギリシア)は、当時の芸術、建築技術、哲学思想の中心地であり、荘厳なパルテノン神殿にはギリシア神話の神々が祭られていました。アテネは、古代ローマ時代には知識人のあこがれの町でした。
    このアテネに使徒パウロが到着します。彼は偶像の神々を信じる人々や、哲学者、気難しい理屈屋を前にして、“イエスの十字架と復活”を宣べ伝えます。しかし、「奇妙なことを言っている」「いずれまた聞かせてもらおう」と軽く一蹴されてしまう。“福音”をあざ笑って去って行く人もいました。
    かつて、どの町でも大きな伝道成果を上げてきたパウロが初めて味わう屈辱です。しかし、彼の目は曇らなかった。信仰に入った者も、何人かいた(使徒17:34)のです。使徒パウロは、苦しい時こそ絶望のただ中に立つ“十字架”と、人の思いを超えた“復活の栄光”を見ていたのです。

●5月10日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-30 21:03:31 (1228 ヒット)

✣ 相手の「大切」を理解する ✣

    私たちは人とかかわるときに、自分の考えや自己流のやり方を、つい押しつけてしまうことがあるのではないでしょうか。「あなたはこうしなさい」「こうあるべきだ」と言って、時には、きつい言葉で隣人を責めてしまうのです。なぜ、そんなことになるのでしょうか。
    理由は明らかです。私たちの心が“豊かさ”を失っているからです。心が何かに縛られているのです。それは、自分が描く理想、勝手な思い込み、優れた人との比較による劣等感かもしれません。隣人に対して「こうすべきだ」「こうあるべきだ」と注文をつけるだけでは、相手を苦しめるばかりでなく、自分も嫌な思いをして、二重の苦しみを背負うことになります。こうした心の縛りを自分の力で解決するのは容易ではありません。それではどうすれば良いのでしょうか。
    きょうの聖書『エルサレムの使徒会議(使徒15章)』は、初代教会の人々も現代人と同じように、理想や自己流を振りかざしては衝突し、葛藤した様子を伝えています。
    これを解決したのは、“喜びの種をまく人々”でした。“豊かさ”を失わないために、“キリストの十字架”へ向き直る人々、“イエスの教え(御言葉)”に聞く人々です。“聖霊”が働くと、現代人も、悔いる心は癒され、立ち上がる力が与えられます。

●5月3日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-04-23 19:04:41 (1003 ヒット)

✣ 決断する ✣

    ヨーロッパ精神文化の基盤はキリスト教にある。これは誰もが認めるところです。しかし、今から二千年昔、使徒言行録の時代は違いました。政治的にはローマ帝国が絶対的権威をもって人々を支配し、市民生活ではギリシア神話の神々をはじめ、山の神、海の神、さまざまな神々を人々は信じていました。理屈抜きに守らなければならない昔からのしきたりや言い伝えもありました。“福音の光”は、そのような所へ切り込んだのです。活躍したのは使徒パウロだけではありません。聖書に名前を記されていないキリスト者たちが、汗を流し、涙を流し、時には血を流して命を捧げ、“神の栄光”を勝ち取ったのです。ヨーロッパの優れた精神文化は、かつてのキリスト者たちの“祈りと犠牲”の上にあるのです。
    私たちがここを見落として「欧米はいいなあ…キリスト教が根づいているから…」と羨(うらや)んでいるだけでは、この国に“福音”は広がりません。確かに、日本には天皇制、八百万(やおよろず)の神々、家の宗教やしきたり、古い伝統が“福音”の前に壁をつくっています。しかし、視点を変えれば、私たち日本人キリスト者は、今、まさに、“21世紀の使徒言行録”を生きているのです。

●4月26日 週報巻頭言 山田 幸男


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