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■主日礼拝  
毎週日曜日 午前10時〜

教会学校
毎週日曜日 午前1115分〜
・幼稚科
・小学科(低学年・高学年)
・少年少女科
・青年科
・ペアレント科
・成人科

祈祷会
毎週水曜日 朝1030分〜
                  夜  730分〜
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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-02-09 15:50:09 (64 ヒット)

✣ 信教の自由を守る日 ✣

    1966年に、旧「紀元節」が「建国記念の日」と制定された時、平和を願う人々や、キリスト教会・キリスト者は自らの戦前の罪の悔い改めと共に抗議の意味をこめ、2月11日を「建国記念の日」ではなく「信教の自由を守る日」として今日に至っている。
    バプテストの信仰的特徴は、自覚的信仰と、それを確保するための良心や信教の自由・政教分離の原則の主張にある。17世紀の英国に出現したバプテストは、「信仰は国王の介入することではない」「諸個人の良心の自由を賦与することこそ統治者の義務であり、諸個人の良心の自由の賦与なくしては、他のあらゆる自由は自由と名づけるに値しない」「万人に対して信教の自由(信仰を持たない人の自由も)が保障・擁護されるべきだ」と主張してきた。信教の自由が侵され始めると、思想や表現、教育の自由等も侵され、やがて平和が破壊されていく。信教の自由の保障のためには政教分離(マルコ12:17、ローマ13:1〜7)の原則の確立が不可欠である。政教分離とは政治権力と宗教の分離(政治権力と特定の宗教との結合禁止)であって、教会や信仰者が政治的な事柄に関わってはならないという意味ではない。それゆえ「神のみ旨に反する」動きへの反対は信仰的課題・証し・祈りなのである。
※連盟ヤスクニ通信No.11参照

●2月10日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-02-02 13:59:55 (68 ヒット)

✣ イエスのグリーフケア ✣

   ルカによる福音書には、愛するわが子の死を嘆き悲しんでいる親が、7章と8章に登場する。今日の7章は、息子を亡くしたやもめ(寡婦)であり、8章は、娘を亡くした父親、会堂長のヤイロ。親にとって愛するわが子の死は耐え難い悲しみである。
   ヤイロは、死にかけていた娘を助けてもらおうと、必死の思いでイエスのところにやってきて、イエスの足元にひれ伏し、自分の家に来てもらいたいと願い出た。そしてイエスはその願いに応え、娘は救われた。
   今日の聖書のやもめは、ヤイロとは対照的で、社会的な地位もなく、名前も記されない貧しい女性であり、言葉も奪われているのか一言も発していない。そこにあるのは、彼女の深い悲しみと沈黙のみ。イエスは、その女性を見て、憐れに思い「もう泣かなくてもよい」と言われた。「憐れに思い」は、岩波訳では、「断腸の想いを覚え」となっている。主は、深く悲しむ彼女に目を留め、自分のはらわたがちぎれるほどの想いを覚え、彼女の悲しみをご自分のものとしてくださった。彼女が何も言わなくとも、すべてをご存じのイエスがご自分から彼女に近寄ってくださったのだ。イエスこそ人の深い悲しみ(グリーフ)に真に寄り添ってくださる方。私たちが悲しみに沈黙する時、既に傍らにおられるのだ。

●2月3日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-26 15:31:59 (67 ヒット)

✣ 地域に仕える教会 ✣

    先週は冬休みをいただいたので北九州へ行ってきた。昨年、衆議院議員の女性が「LGBTは生産性がない」と述べて波紋を広げたが、生産性とは何かを考えていた時に、たまたま東八幡教会で「生産性について考える」というテーマで、学び、語り合う場があるというので参加した。講師は北九州市立大学大学院教授の工藤一成先生。
    20日の主日は、神学生時代にお世話になった南小倉教会で礼拝した。南小倉教会は礼拝出席20〜25名の小さな群れ。でも活き活きしている。午後は「生笑一座(いきわらいちざ)」を招いての集会が企画されていた。「生笑一座」とは、「きてさえいれば、いつかえる日が来る一座」のことで、メンバーは、東八幡の奥田知志牧師、南小倉の谷本仰牧師、元ホームレスの方々。「もう死ぬしかないんじゃないか」という極限を経験した当事者が、いま笑顔で暮らしている。生きづらい思いをしている子どもたちがいれば、「生きてさえいれば、いつか笑える日が来るよ!」と身をもって伝えたいとの思いからこの一座が立ち上げられ、全国の学校や施設に行って公演している。
    いのちを大切に、困った時には「助けて」と言える社会を目指し、地域に仕えているそれぞれの教会から多くを学び、教会の働きを深く考えさせられている。

●1月27日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-19 16:05:50 (70 ヒット)

✣ そのとおりにしたところ・・・(ルカ福音書5章6節)

    信仰生活には、人知を超えた神の力、働きにふれることがなくてはならない。そこから信仰は始まってくるのである。わたしたちが神を必要としているとか、信仰生活をするのがよいとか、そういうことが信仰生活の原動力ではない。神が私に迫ってきたから信仰せざるをえなくなる、福音を語らなければならなくなるようなものが、私たちの中に興されてくるところに信仰の原点がある。
    では一体どうすれば神に出会うこが出来るのか。
    キリスト教はどこまでも約束の宗教であり、その約束を履行することが一番大事である。「そのとおりにしてみた」ときに、はじめて聖書の言葉が本当か嘘かが分かる。それは約束であると信じて、それに従うなら、そこで、私たちは今も生きておられる神に触れるのである。その神に触れることから信仰生活が始まる。

榎本保郎書 1日1章 から

●1月20日 週報巻頭言  教会員  吐田 敏宏


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-12 13:46:26 (75 ヒット)

✣ 恵み深い言葉 ✣

    「主の霊がわたしの上におられる。/貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」
    荒れ野での40日間の誘惑を退け、ガリラヤでの伝道を始めたイエスは、故郷ナザレに来て、会堂でイザヤ書の言葉を朗読し、ご自分が世に遣わされた意味を示された。ルカ福音書の著者は、イエスのわざと言葉、そして十字架の出来事、それがいったい何のためであったのかをまず宣言している。
    イエス・キリストの福音は、本来、人間を解放し、社会を解放するもの。そこで公平と正義が実現され、一人ひとりが自由に平和に生きることができる、それがイエスの宣教の原点であり、目的なのである。
    沖縄の友人からの年賀状に、元沖縄県知事、故翁長雄志氏の言葉があった。「沖縄県民の『魂の飢餓感』とは、大切な人の命と生活を奪われた上、差別によって尊厳と誇りを傷つけられた人びとの心からの叫びです」。この言葉に胸が痛む。沖縄は県民投票を前に権力によって更に分断されている。抑圧されている沖縄の現実にわたしたちは何をなすべきか祈り求めたい。

●1月13日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


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