【みことばが支える】
人間が人間であることを、ほんとうは何が支えてくれているのでしょう。
人間が人間であることの基本的事実の一つは、「人間は弱く、限界をもっている」ということです。肉体を持って生きるが故に、飢え、渇き、痛み、老い、そして死にます。そこに苦しみが生まれ、悲しみが湧きます。でもそれこそが人間の証明です。「石をパンに変える力」とは、その弱さと限界からの自由を意味します。けれども、その「自由」は、悲哀を伴う人間の生の美しさと人間らしさを奪い去ってしまうことでしょう。
人間が人間であることのもう一つの基本的事実は、「人間は交わりに生きる」ということです。交わりの本質は「ことば」です。人格のふれあいとしての「ことば」です。「パンのみにて生きる」とは、人間が、交わりによらずとも、「個」として存在し得るかのような「誤解」を意味します。しかし人間の人間らしさは、交わりの中で見いだされ、保たれています。人間の限界性と交わり性を根底で支えているものは「神さま」と「ことば」です。
●4月11日週報巻頭言 吉高 叶
【復活。喜ばしい「結局」】
主イエスに対する弟子たちの愛には野心が含まれていた。イエスへの尊敬と傾倒は嘘ではなかったが、自らの功名心が多分に混じっていた。そして、そんな弟子たちの愛は、十字架の前であっけなく砕け散ってしまった。
マグダラのマリアら女性たちには、主イエスへの人間的愛が満ちていた。自己の野心とは無縁な深い愛である。しかし、悲しいことだが、そのような深い愛ゆえに、最終的には愛するものの墓の前に立ちつくさねばならなかった。そのように、人間の愛は、ふたつの悲しい結論を持つ。十字架の前で崩れるか、墓の前で立ちつくすかである。そして、いずれにしても、終わりを迎えてしまうのである。
しかし、人間の愛が、つまりは人間の人生が、悲しい結論を迎えてしまう場面からこそ始まる新しい生命がある。それが、主イエスの復活であり、神のわたしたちへの愛の御業である。
「あの方はよみがえられて、ここにはいない」。人間の「結局」が、「結局」ではない。その背後にある、神の業の「結局」を信じよう。 ●吉高 叶
【どこまでもインマヌエル】
「十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやる」。この言葉に、人間の「信仰」に潜む不遜と傲慢が十分に込められています。人間は、神に要求し、神を診断し、神を認定するのです。それを「信仰」だと考えています。
もし、主イエスがあの時十字架から降りてきたら、どうだったでしょうか。
「神の子」の力で、壮絶な苦しみと悲惨の場から離れてしまわれたなら・・・。世界は彼の力を崇拝するでしょう。しかし、罪のもがきと死の恐れを抱え込みながら生き、自らの孤独な死を死ななければならない私たちとはかけ離れた、異質な存在であったでしょう。
人間の生の実態において、起こりうる最悪の死のすがたに留まり、人間が舐めさせられる最悪の絶望を味わい、神と人から切り捨てられた「罪人の死」を主イエスは死にました。殺される死を彼は死にました。
主イエスは、私たちの生きる苦しみと無関係な方ではないし、私たちの死と無関係な方ではないのです。私たちのあらゆる命の場に、インマヌエルしてくださる方なのです。
●吉高 叶
【復活を信じ、誠実に生きる】
パウロは主イエスの復活の証人です。他の使徒たちと同様に、復活の主に出会って回心し、その驚きと喜びを伝える伝道者となりました。パウロにとっては、主の復活は全ての力の源であり、この世の生の営みの希望でした。
けれどもコリントの教会には、「死者の復活などないし必要ない」と主張する人々が現れていました。自分たちは、すでに霊的次元を生きる存在であり、「不死」の存在である。だから、今さらこの世界に執着はないし、肉体に意味を見いださないという考え方からです。パウロは、彼らの思い違いと対決します。
私たちに与えられるのは不死ではなく復活です。この世での精一杯で誠実な生の営みに主は寄り添われ、私たちの生に在る罪をあがない、そして苦悩の死を共に死んでくださいます。しかし、私たちは、キリストのよみがえりに与り、復活を約束されます。
この世離れした霊的存在になれるという幻想は危険です。そうではなく、復活を信じるからこそ、この生を誠実に生きることこそ、主の御心なのです。
●吉高 叶 3月21日 週報巻頭言