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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-11-01 19:10:34 (1545 ヒット)

              凄い話、凄い出来事
   「原爆の図」をはじめ戦争の悲しみを大屏風に描くことを生涯のテーマとした画家・丸木位里さん、俊さん。彼らは晩年に「地獄の図」という作品を描いた。人間の罪深さ、人間のもたらす悲惨をそこに描き込んだ。そして「そこに自分たちもその絵の中にいなければならない」と、互いに互いの姿を最後に描き込んだ。
   「地獄の絵」にまつわるそんな話を本人たちから聞かされた知人の鈴木伶子さんは、お二人に語りかえした。
「確かに、私たち人間は丸木さんが描いたように地獄行きの存在そのものだと思います。しかし、私たちの信じているキリスト、イエスという人は、自らも死んで“その地獄”に行き、罪の裁きに苦しむ世界に置かれた後、そこからよみがえり、その命の中に滅びるばかりの人間を連れ出してくださった方なのです」と。
その話を聞いた丸木位里さんはしばらく絶句した後で、「凄いはなしだ・・・」とつぶやき、また黙り込んでしまわれたそうだ。
そうだ、凄いはなしだ。地獄の図は神のいない虚無の図ではない。地獄に傷だらけのキリストが居て、苦しむ人々に手を伸ばして抱きかかえようとしている、凄い出来事なのだ。
わたしたちは、どこにいても、どうであっても、キリストに抱きかかえられていて、彼のところにいることができるのである。
                                           牧師 吉高叶(11月1日 墓前礼拝より)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-10-25 19:11:37 (1676 ヒット)

                愛を知る喜び

 聖書・コヘレトの言葉には「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」と記されています。創造主(神)を知るということは、自分の生命の価値を知るということ、生まれてきた意義を知るということと直結していくことだと思います。人は、多感な青春の日々に、自分の価値、位置、人生の意義について悩み、苦しみます。苦悩しながら自己を確立し、自立していくのだと思います。その確立・自立に向かう苦悩・葛藤の時にこそ、心に留めるべきもの、それが神の存在です。しかも、この創造主なる神の愛の想いを知ることこそが、確立・自立を豊かに支えてくれます。

 私たちは、常に礼拝で、教会で、神を知る喜び、愛を知る喜びをわかちあうと共に、世代を超えて伝え合っていきたいものです。

「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えた神の愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」エフェソの信徒への手紙3:18-19

                    牧師 吉高 叶(10月25日巻頭言より)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-10-11 19:12:35 (1562 ヒット)

                 魂の事件

 先日の夜の祈祷会で、直前に放映されたNHKの“クローズアップ現代〜なぜ孤独死?働き盛りの悲劇〜”が話題になった。若い人々の孤独死の問題だ。困り果て、死が迫っているほど苦しんでいるのに、「助けて」と言えない人々・・・。

 人は助けられて生きる。支えられて生きる。このことへの経験も実感も確信も持てないほどに分断されてしまっていたのだろうか。孤独だったのだろうか。そして、自分の重要な何かが失われたとき、人生の全てがすっかり消えてしまうほどに、「自己存在の意義」の中に他者との繋がりが入り込む余地がなかったのだろうか。

 しかし、問いは、こちらに向かってはね返ってくる。果たしてわたしは、それらの人々に向かって、「わたしたちは、いざという時あなたを支える繋がりだ」と告げてきただろうか、と。繋がりの問題なのだから、こちらの問題でもあるのだ。

 初代教会。ペンテコステから始まり、次々と人々が加えられていく出来事は、そして全てを持ち寄って共に生きた様子は、いったいどんな事件だったのだろう。きっと人間の存在性における繋がりの問題に新しい何かが引き起こされたのだろう。「生きるって何なのか」「自分の命は何かと繋がっているのか」という人間の魂の琴線に触れ、それゆえに「誰か助けて!」「誰か来て!」と求めていた人々を揺り動かし、結合させるような事件だったに違いない。

                                      牧師 吉高 叶(10月11日巻頭言より)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-10-04 19:07:33 (1759 ヒット)

               ひらかれていく人々

使徒言行録は、弟子たちが迎えた新しいステージの証言です。イエス様の直接的な導きの中を生きてきた弟子たちが、これからは自分たちの足で主体的に歩んでいく様子が描かれています。

使徒言行録が記す新しいステージの特徴は、 
ーらが証しして生きること 
∪こΔ乏かれていったこと 
6Δ棒犬る道(共同体形成)であったこと 
さГ蠅傍鬚辰得犬たこと 
です。

イエス様の生前には、師イエスに依存し、自分の願望に固執し、仲間を出し抜きあっていた弟子たちが、イエス様を目で見ることができなくなった今は、むしろ聖霊の導きを求めて祈りを合わせ、共に助け合い、使命・召命に向かって生きるようになっていきます。

祈りに啓かれ、心を開き、道(未来)を拓いていく、そんな「ひらかれた人々」に弟子たちがつくり変えられていきます。それが使徒言行録を読む楽しさです。そして「使徒言行録」は、今日の私たちキリスト者の歩みに繋がっています。私たちも、「ひらかれていく人々」として、同じ聖霊の招きに与っているのです。  

牧師 吉高 叶(10月4日 巻頭言より)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-09-20 19:09:26 (1588 ヒット)

               キリスト、この道
  イエス・キリストの人生は、馬小屋の誕生と十字架の死に凝縮されていると言って過言ではありません。人々が見落とし、人々が目を背けたあの場所、あの道こそが「狭き門」「細き道」の極点ではないでしょうか。
  主イエスのまなざしは、常に神の祝福と愛の深みに根ざしていました。そして、そのまなざしは常に最も貧しき者、弱い者に向けられていました。大いなる神の愛を見続ける目、それゆえ小さな存在を見続ける目。どうやら、狭い門・細き道は、その「まなざし」を持って生きることと繋がっているようです。
  狭い門から入る生き方。それは、必ずしも人生において、過酷で厳しいと思われる道を自ら選び取ろうとすることではありません。十字架は自分で背負うものではなく、背負わされるものだからです。
  「自分の道」を求めるのでなく、神と小さき人々への道を求めることです。単に、厳しい道のことではなく、主イエスの背中が見える道のことです。主イエスは言われます。
「わたしは道である」と。
                                                           牧師 吉高 叶(9月20日巻頭言より)


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