【復活を信じ、誠実に生きる】
パウロは主イエスの復活の証人です。他の使徒たちと同様に、復活の主に出会って回心し、その驚きと喜びを伝える伝道者となりました。パウロにとっては、主の復活は全ての力の源であり、この世の生の営みの希望でした。
けれどもコリントの教会には、「死者の復活などないし必要ない」と主張する人々が現れていました。自分たちは、すでに霊的次元を生きる存在であり、「不死」の存在である。だから、今さらこの世界に執着はないし、肉体に意味を見いださないという考え方からです。パウロは、彼らの思い違いと対決します。
私たちに与えられるのは不死ではなく復活です。この世での精一杯で誠実な生の営みに主は寄り添われ、私たちの生に在る罪をあがない、そして苦悩の死を共に死んでくださいます。しかし、私たちは、キリストのよみがえりに与り、復活を約束されます。
この世離れした霊的存在になれるという幻想は危険です。そうではなく、復活を信じるからこそ、この生を誠実に生きることこそ、主の御心なのです。
●吉高 叶 3月21日 週報巻頭言
【キリストに結ばれる、一つの体】
パウロは、教会が一つの体であることを、まさに身体の四肢のたとえを用いて話します。手と足の働きの違いがある。目と耳の役割の違いがある。けれども共に一つの身体だと。
この身体のたとえはとてもわかりやすいのですが、実は、パウロが考案したものではありません。当時、ローマの植民地ではよく引用されていた常套のフレーズでした。でも使い方がまるで逆です。ローマ帝国の支配構造を維持し平和と安定を保つために、下層民は下層民としての立場に、奴隷は奴隷としての立場に、不満を持たずに甘んじているように。身分の差別や富の不均衡は、帝国構造の秩序維持に必要なものなのだ、と説き伏せるためのたとえでした。
しかし、パウロは、同じ体のたとえを用いながら全く別のメッセージを放っています。一つの部分が苦しめば全ての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全ての部分が共に喜ぶという一つの体の特性、痛みや喜びのつながりの特性に注目します。さらに、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」と言うように、人間が考えてしまう賜物論(人間の能力論)を、神の働きのもとで、まったく相対化してしまいます。
ここに、新しい一致の思想、オルタナティブな共同性の提示があります。
●吉高 叶(3月7日 週報巻頭言)
【赦し・交わり・希望の食卓】
M.L.キング牧師のワシントンでの演説「私には夢がある」は、今も私たちの心を揺さぶります。その夢とは「食卓の風景」でした。かつての奴隷所有者の子孫たちと、奴隷の子孫たちが、皮膚の色や背景の違いを超えて共に一つのテーブルに座っている夢です。
神の国を、共に座る食卓としてイメージすることは、今日、尚、有効なことです。世界の人々は未だに食物をわかちあえず、一つのテーブルにつくことができないままだからです。そして、そのような時代の教会の「在り方」を想うとき、教会を「主イエスの食卓」として理解したり、省みたりすることもまた、とても大切な視座ではないかと感じます。
「いったい、この食卓には、誰が共にいるのか。」「ここで、あなたは何を味わっているのか。」この問いが響く、それがイエスの食卓です。
罪人らとの食事。重病人の家での食事。5000人の供食。そして最後の晩餐。
主イエスの食卓で、人は驚くべき憐れみと、赦しと、招きと、愛を味わうのです。
●2月28日週報巻頭言・吉高 叶
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」
わたしたちは、それぞれが人生の荷車を引っ張って生きています。自らの闘病、肉親の介護、経済的負債、対人関係のこじれ、過去のトラウマなどです。
自分の荷車ですから、自分で引いています。一生懸命に引いています。人生とは、かくも重い道のりです。
しかし、イエスさまは呼びかけてくださいます。「わたしのもとに来なさい」と。
では、「わたしのもと(イエス様のもと)」とは、いったいどこにあるのでしょう。人生を放り出し、荷車を投げ捨てて、どこかに行けばいいのでしょうか。いいえ。わたしの人生はあくまでもわたしの道として歩むべきです。けれども、イエス様が「わたしの道」に寄り添い来て、わたしの人生の道の中で「わたしのもとに来なさい」とおっしゃるのです。自分の荷車を引きながら行くしかない「わたしの人生の道」に、「イエス様のもとに」という場所があるというのです。
イエス様はおっしゃいます。「あなたがたを休ませてあげよう」と。
「荷を降ろさせてあげよう」ではなく「休ませてあげよう」です。やはり、わたしの人生を、わたしが歩んで行くのです。けれども、休みが与えられます。慰めが与えられます。また、人生の荷車の豊かな引き方、平安な引き方を、イエス様に学ぶことができます。
とかく、自分の人生の荷車を引きずりながら、自分自身を痛めつけている私たち。
イエス様のもとで休みつつ生きること、そして柔らかく荷車を引く引き方を学ぶこと。それを大切にしていきたいと思います。
●三郷家庭集会の話より
「福音にあずかる私たち」
「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」パウロのこの言葉はとても勇ましく聞こえます。「たとえ火の中水の中」といった、情熱的で決死の献身、もう脇目をふらない一途さを連想させる言葉でもあります。
しかし、この言葉の「熱さ」に目を引かれるばかりに、この言葉が含意している「他者性」のことを見落としてはなりません。パウロは「どんなことでもしようとする自分の情熱」に関心があるわけではないからです。
彼は、目の前に出会った人が、キリストにとらえられるために、その人がどんな立場の人であっても、そのままを受け止め、その人の全人格に向き合うこと、そのためには「その人のようになる」ことの大切さを語っているからです。
「どんなことでもします」とは、「今、目の前のことに大切に向かい合います」ということなのです。「どんなことでもします」とは、「キリストに向けて、いま、これを、この人を、この時を尊びます」ということなのです。「どんなことでもします」は、全て「福音に共にあずかる」ことにかかっています。
だから、わたしたちは「どんなことでもできる」人間になることに憧れる必要はありません。ただ、「いま、ここで、あなたと福音をわかちあえる、そんな私になれますように」と祈れば良いのです。
●吉高 叶(2月14日 週報巻頭言)