キリスト、この道
イエス・キリストの人生は、馬小屋の誕生と十字架の死に凝縮されていると言って過言ではありません。人々が見落とし、人々が目を背けたあの場所、あの道こそが「狭き門」「細き道」の極点ではないでしょうか。
主イエスのまなざしは、常に神の祝福と愛の深みに根ざしていました。そして、そのまなざしは常に最も貧しき者、弱い者に向けられていました。大いなる神の愛を見続ける目、それゆえ小さな存在を見続ける目。どうやら、狭い門・細き道は、その「まなざし」を持って生きることと繋がっているようです。
狭い門から入る生き方。それは、必ずしも人生において、過酷で厳しいと思われる道を自ら選び取ろうとすることではありません。十字架は自分で背負うものではなく、背負わされるものだからです。
「自分の道」を求めるのでなく、神と小さき人々への道を求めることです。単に、厳しい道のことではなく、主イエスの背中が見える道のことです。主イエスは言われます。
「わたしは道である」と。
牧師 吉高 叶(9月20日巻頭言より)
祈りにつくられる
祈りは信仰生活の核心です。祈りによって、私自身がつくられ、人生がつくられていきます。けれども、自分自身がつくられない祈りもあります。それは、自分が先に置かれていて、自分の栄光や自分の必要のために始められてしまう祈りです。イエス様は、そんな倒錯した祈りの姿勢を、「偽善者の祈り」とか「異邦人の祈り」と象徴的に語っておられます。(マタイ福音書6:5-8)
どこで祈るか、誰に見られるか。もし祈るときにそれが問題になってしまうなら、誰と向かい合うかが消え去っていきます。何を求めるかが、すでに自分の中で決まってしまっているならば、神との対話ではありません。そうした祈りによって、自分が変えられたり、自分が新しくなることは起こりません。
祈るなら、祈るとき、まっすぐ神と向かい合うことと、私に必要なものを真に知りたもう方と対話すること、それが祈りだとイエス様はおっしゃいます。そして、祈りの中で、その人の生がつくられていく祈りとして「主の祈り」を教えてくださったのです。 牧師 吉高 叶
未来の笑顔のために種を蒔く
1年前の、8月30日。アフガニスタンで伊藤和也さん(31歳)が、拉致・殺害されました。中村哲さんのペシャワール会に加わり、井戸掘り、用水路づくり、サツマイモ栽培などアフガニスタンの生活再建、農業復興に従事してきた若者でした。
伊藤さんが種を蒔き育った菜の花畑で子どもたちが満面の笑みをたたえている写真があります。TVでも紹介されていました。これも伊藤さん自らが撮影した写真です。この菜の花は、肥料とするために植えられたものだそうです。いつも、次の時代、子どもたちの時代の人々の暮らしと笑顔のために種を蒔く、そんな活動に従事してきたワーカーたちがいます。している奉仕者たちがいます。
未来のための種まきの仕事、その夢を無惨にも断たれた伊藤和也さんの無念はいかほどかと思います。しかし、種は大地に根付いていくことでしょう。
いま、伊藤さんの後輩の若者が、伊藤さんの志を引き継いで立ち上がっています。
急速に情勢が悪化しつつあるアフガニスタンでのペシャワール会の活動は、いま、困難に直面していますが、この希望のしごとは、決してあきらめられてしまうことはないのです。
牧師 吉高 叶 (8月30日記)