「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」
わたしたちは、それぞれが人生の荷車を引っ張って生きています。自らの闘病、肉親の介護、経済的負債、対人関係のこじれ、過去のトラウマなどです。
自分の荷車ですから、自分で引いています。一生懸命に引いています。人生とは、かくも重い道のりです。
しかし、イエスさまは呼びかけてくださいます。「わたしのもとに来なさい」と。
では、「わたしのもと(イエス様のもと)」とは、いったいどこにあるのでしょう。人生を放り出し、荷車を投げ捨てて、どこかに行けばいいのでしょうか。いいえ。わたしの人生はあくまでもわたしの道として歩むべきです。けれども、イエス様が「わたしの道」に寄り添い来て、わたしの人生の道の中で「わたしのもとに来なさい」とおっしゃるのです。自分の荷車を引きながら行くしかない「わたしの人生の道」に、「イエス様のもとに」という場所があるというのです。
イエス様はおっしゃいます。「あなたがたを休ませてあげよう」と。
「荷を降ろさせてあげよう」ではなく「休ませてあげよう」です。やはり、わたしの人生を、わたしが歩んで行くのです。けれども、休みが与えられます。慰めが与えられます。また、人生の荷車の豊かな引き方、平安な引き方を、イエス様に学ぶことができます。
とかく、自分の人生の荷車を引きずりながら、自分自身を痛めつけている私たち。
イエス様のもとで休みつつ生きること、そして柔らかく荷車を引く引き方を学ぶこと。それを大切にしていきたいと思います。
●三郷家庭集会の話より
「福音にあずかる私たち」
「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」パウロのこの言葉はとても勇ましく聞こえます。「たとえ火の中水の中」といった、情熱的で決死の献身、もう脇目をふらない一途さを連想させる言葉でもあります。
しかし、この言葉の「熱さ」に目を引かれるばかりに、この言葉が含意している「他者性」のことを見落としてはなりません。パウロは「どんなことでもしようとする自分の情熱」に関心があるわけではないからです。
彼は、目の前に出会った人が、キリストにとらえられるために、その人がどんな立場の人であっても、そのままを受け止め、その人の全人格に向き合うこと、そのためには「その人のようになる」ことの大切さを語っているからです。
「どんなことでもします」とは、「今、目の前のことに大切に向かい合います」ということなのです。「どんなことでもします」とは、「キリストに向けて、いま、これを、この人を、この時を尊びます」ということなのです。「どんなことでもします」は、全て「福音に共にあずかる」ことにかかっています。
だから、わたしたちは「どんなことでもできる」人間になることに憧れる必要はありません。ただ、「いま、ここで、あなたと福音をわかちあえる、そんな私になれますように」と祈れば良いのです。
●吉高 叶(2月14日 週報巻頭言)
植えられたところで咲く
「召された時の、そのままを大切に、そこで精一杯主に仕えて生きよう。」
パウロはコリントの教会にそう呼びかけています。
生粋のユダヤ人か、異国育ちのユダヤ人か、それともローマ人か、ギリシャ人か。富裕層たる自由人か、元奴隷出身の自由人か、それとも奴隷身分か。
自己理解を振り分けてしまうこうした座標軸がコリントの街にはあり、様々な異相が人々の間に見られ、それが原因でいくものグループに分かれてしまおうとしていたのがコリントの教会でした。
すべての人間を創り成長させてくださるのは神。そして救いの土台はキリスト。さらに、終末の審判の前で全ての人間は等しく扱われる。しかも「その日」は近い。パウロは、このシンプルで明快な確信に立っています。また、「キリストの十字架の救いに与る者」という新しい自己理解(アイデンティティー)の共有を呼びかけています。
わたしたちも、この世の基準に翻弄させられず、召された時の自分を喜び、植えられたところで花を咲かせていきたいものです。
2月7日・週報巻頭言
苦悩の使徒
「使徒たちがどれほどのもの」「パウロがなんぼのもの」。コリントの一部のクリスチャンたちは、ギリシャの哲学や知恵を身につけた自分たちを、霊的にも存在的にも高次元に到達した人間だと自負し、パウロや使徒たちの教えをないがしろにするような発言をしていたようです。
「もう聖書の戒めも乗り越えた。」「もう使徒もパウロも乗り越えた。」「われわれは誰からも束縛されない自由で賢い存在だ。」
パウロはそんな彼らにまっすぐ挑んでいきます。
「すべては与えられた恵みではないか。人は、ただ神の僕、恵みの管理者ではないか。人に誉れを与えるのも、人の業を審くのも、ただ神のみ。そのことを知らねばならない。王様にでもなったかのようなあなたたちに問いかけたい。真の王、主イエスはどのように歩まれたか。そして、どこに死なれたか。ほんとうの自由とは、人々の僕となることを選ぶことができるほどの、あの主イエスの貧しさと低さではないか。あの方に倣おう。仕え合い、互いに尊敬し合って生きていこう。」と。
●1月31日・週報巻頭言 吉高 叶
基礎
普通に過ごしている時にはつい忘れがちですが、いざというときに問題になるのは基礎です。基(もとい)・礎(いしずえ)です。建物でいうならば土台であり、技術でいうなら基本であり、人間でいうならば魂の根底にあるべき愛と平安です。また、教会の交わりにとってはキリスト告白(イエス様がわたしの救い主ですという信仰告白)です。
建物も、人生も、交わりもいろいろな建て方ややり方でつくることができます。しかし、基礎(土台)を据えることと、基礎を忘れない(忠実)ことがとても大切です。
建物に雨や風が吹きつけるように、人生にも試練や妨害がぶつかってきます。衝撃が加わり亀裂が生じます。そのとき、基礎に守られます。基礎があれば。それが崩れない土台であれば。
いま、組み建ててきた人生が崩れ、社会や人間そのものが倒壊する悲劇があちこちで起こっています。支える土台がなかったかのように倒れ方がひどいのです。交わりの絆がもろいのです。この社会は、人間と人間があまり組み合わされていないのです。
いまは、心して、人生や交わりの基礎に想いを寄せる時です。神の愛、キリストの十字架の救い、復活の希望。これこそ人生の基礎、交わりの基礎なのです。わたしたち一人一人が立たされているのは、イエス・キリストという土台の上にであり、そしてわたしたちは共にこの土台の上に、共に立っていく交わり、この土台の上で組み合わされている神の宮なのです。そしてこの土台は、ただ、人生の土台というだけではなく、死の土台であり、生きる者と召された者との土台でもあります。私たちは、生きる上で苦しむ。しかし、この土台の上で苦しむことが許されるのです。あなたも私も、喜びも悲しみも、生も死も、この土台に支えられています。イエス・キリストは、すべての基、すべての礎です。
●1月24日説教より抜粋