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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-02-14 23:18:46 (1837 ヒット)

                「福音にあずかる私たち」
 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」パウロのこの言葉はとても勇ましく聞こえます。「たとえ火の中水の中」といった、情熱的で決死の献身、もう脇目をふらない一途さを連想させる言葉でもあります。
 しかし、この言葉の「熱さ」に目を引かれるばかりに、この言葉が含意している「他者性」のことを見落としてはなりません。パウロは「どんなことでもしようとする自分の情熱」に関心があるわけではないからです。
 彼は、目の前に出会った人が、キリストにとらえられるために、その人がどんな立場の人であっても、そのままを受け止め、その人の全人格に向き合うこと、そのためには「その人のようになる」ことの大切さを語っているからです。
 「どんなことでもします」とは、「今、目の前のことに大切に向かい合います」ということなのです。「どんなことでもします」とは、「キリストに向けて、いま、これを、この人を、この時を尊びます」ということなのです。「どんなことでもします」は、全て「福音に共にあずかる」ことにかかっています。
 だから、わたしたちは「どんなことでもできる」人間になることに憧れる必要はありません。ただ、「いま、ここで、あなたと福音をわかちあえる、そんな私になれますように」と祈れば良いのです。
                 ●吉高 叶(2月14日 週報巻頭言) 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-02-07 21:36:22 (1611 ヒット)

                    植えられたところで咲く
 「召された時の、そのままを大切に、そこで精一杯主に仕えて生きよう。」
 パウロはコリントの教会にそう呼びかけています。
 生粋のユダヤ人か、異国育ちのユダヤ人か、それともローマ人か、ギリシャ人か。富裕層たる自由人か、元奴隷出身の自由人か、それとも奴隷身分か。
 自己理解を振り分けてしまうこうした座標軸がコリントの街にはあり、様々な異相が人々の間に見られ、それが原因でいくものグループに分かれてしまおうとしていたのがコリントの教会でした。
 すべての人間を創り成長させてくださるのは神。そして救いの土台はキリスト。さらに、終末の審判の前で全ての人間は等しく扱われる。しかも「その日」は近い。パウロは、このシンプルで明快な確信に立っています。また、「キリストの十字架の救いに与る者」という新しい自己理解(アイデンティティー)の共有を呼びかけています。
 わたしたちも、この世の基準に翻弄させられず、召された時の自分を喜び、植えられたところで花を咲かせていきたいものです。
               2月7日・週報巻頭言


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-02-01 11:10:30 (1729 ヒット)

                苦悩の使徒
 「使徒たちがどれほどのもの」「パウロがなんぼのもの」。コリントの一部のクリスチャンたちは、ギリシャの哲学や知恵を身につけた自分たちを、霊的にも存在的にも高次元に到達した人間だと自負し、パウロや使徒たちの教えをないがしろにするような発言をしていたようです。
 「もう聖書の戒めも乗り越えた。」「もう使徒もパウロも乗り越えた。」「われわれは誰からも束縛されない自由で賢い存在だ。」
 パウロはそんな彼らにまっすぐ挑んでいきます。
 「すべては与えられた恵みではないか。人は、ただ神の僕、恵みの管理者ではないか。人に誉れを与えるのも、人の業を審くのも、ただ神のみ。そのことを知らねばならない。王様にでもなったかのようなあなたたちに問いかけたい。真の王、主イエスはどのように歩まれたか。そして、どこに死なれたか。ほんとうの自由とは、人々の僕となることを選ぶことができるほどの、あの主イエスの貧しさと低さではないか。あの方に倣おう。仕え合い、互いに尊敬し合って生きていこう。」と。
●1月31日・週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-01-24 22:08:16 (1420 ヒット)

                       基礎
 普通に過ごしている時にはつい忘れがちですが、いざというときに問題になるのは基礎です。基(もとい)・礎(いしずえ)です。建物でいうならば土台であり、技術でいうなら基本であり、人間でいうならば魂の根底にあるべき愛と平安です。また、教会の交わりにとってはキリスト告白(イエス様がわたしの救い主ですという信仰告白)です。
 建物も、人生も、交わりもいろいろな建て方ややり方でつくることができます。しかし、基礎(土台)を据えることと、基礎を忘れない(忠実)ことがとても大切です。
 建物に雨や風が吹きつけるように、人生にも試練や妨害がぶつかってきます。衝撃が加わり亀裂が生じます。そのとき、基礎に守られます。基礎があれば。それが崩れない土台であれば。
 いま、組み建ててきた人生が崩れ、社会や人間そのものが倒壊する悲劇があちこちで起こっています。支える土台がなかったかのように倒れ方がひどいのです。交わりの絆がもろいのです。この社会は、人間と人間があまり組み合わされていないのです。
 いまは、心して、人生や交わりの基礎に想いを寄せる時です。神の愛、キリストの十字架の救い、復活の希望。これこそ人生の基礎、交わりの基礎なのです。わたしたち一人一人が立たされているのは、イエス・キリストという土台の上にであり、そしてわたしたちは共にこの土台の上に、共に立っていく交わり、この土台の上で組み合わされている神の宮なのです。そしてこの土台は、ただ、人生の土台というだけではなく、死の土台であり、生きる者と召された者との土台でもあります。私たちは、生きる上で苦しむ。しかし、この土台の上で苦しむことが許されるのです。あなたも私も、喜びも悲しみも、生も死も、この土台に支えられています。イエス・キリストは、すべての基、すべての礎です。
●1月24日説教より抜粋


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-01-17 18:44:59 (1483 ヒット)

                十字架を宣べ伝える
 神は、人間の知恵を積むことによってとらえることはできません。また、人間の行いを清くすることによって近づける方でもありません。では、神はどこで見いだされるのでしょうか。神は、十字架におられます。
 たとえば、15年前のあの阪神・淡路大震災の最中に、命を落とさざるをえなかった人々の絶叫の中に見いだすことができます。家族を失った人々の深い嘆きの中に見いだすことができます。そして今、ハイチで絶望の叫びをあげている人々のただ中に神はいらっしゃいます。十字架のキリストは、人々から捨てられたあのイエス様は、そのとてつもない苦しみと孤独と絶望の中におられるのです。
 自然災害や理不尽な出来事に見舞われたとき、人は論じようとします。「それらはどうして起こったのか。」「どのような罪に対する神の審きなのか」「後で何かを教えるためなのか」。そのように問うたり、それに答えを与えようとすることこそが、人間の傲慢であり、神をつかんでしまおうとする人間の愚かな知恵です。それらは全て隠されているのです。にもかかわらず、人間がそれを説明してしまおうとすることを通して、どれほどたくさんの人たちを傷つけていることでしょうか。
 しかし、ただ一つ、神がイエス様によって明らかにされた一つのことがあります。「十字架に苦しむ御子は、この嘆きとこの絶望の中に共におられる」ということです。わたしたち人間は、十字架に現されたこの一点の事実から、慰めと祈りとを起こしていくべきです。いま、ハイチの人々のことを心配しながら、わたしたちが知らなければならない根源的なことは、「キリストは、神さまは、あの中で共に苦しみ、あの絶望の中にいる人々の命を抱きしめている」ということです。
 そして、私たちがしなければならないこともまた、できるだけ犠牲者たちと悲しみを共にし、この苦しみの意味を地上から問いながらも、絶望しないで生きていくこと。「生きていこうとする」ことにおいて被災地の人々とできるかぎり繋がっていくことができるようにと祈ることではないでしょうか。
                 1月17日・説教より抜粋


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