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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-05 22:03:32 (1582 ヒット)

クリスチャンになる。
何かいいことあるの。
ない。
むしろ、涙と苦労を背負い込む。
他人のために泣き
他人のために苦しみ
他人が泣いてれば、他人が苦しんでいれば
悲しくなる。
そういう心を
そういう生活を
決断することだから。

クリスチャンになる。
何かいいことあるの。
ある。
そのように生きていることそのものが
神さまの祝福。
他人のために涙を流し
他人のために悲しみ
痛むこと。
それそのものが
ほんとうの祝福。
それそのものが
神の国。
それはイエスさまの苦しみの道。
でも、それがイエスさまの永遠。
だから
そのように生きた人は
自分の生涯を全うし、
天に召されるその時
本当に平安に違いない。
すでに神の国を生きてきたのだから。
すでに神の国にいたのだから。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-11-28 17:02:46 (1598 ヒット)

             【聖霊と神の子たち】
 聖霊の働きは、神さまの御心の働きです。神さまが総ての生命を創造なさったとき、「それを見て、よしとされた」祝福の想いは、今もこの崩れゆく自然世界の中で、傷つけられても傷つけられても働いておられます。
 神さまが御子イエス・キリストを捧げ、罪の苦しみと裁きの場から人間を解き放たれた赦しと愛の想いは、今も傲慢さを深める人間世界の中で、嘲られても侮られても働いておられます。
 神さまが墓の中より御子をよみがえらせ、生命が決して虚無に閉じこめられず癒しと新生にあずかるのだという希望の知らせと招きとは、今も憎しみと争いが連鎖する歴史世界の中で、忘れられても拒絶されても働いておられます。
 聖霊は働いています。祝福しようと。赦そうと。慰めようと。癒そうと。望みを与えようと。聖霊は働いています。自然世界のうめきの中で、人間世界の苦悩の中で、総ての被造物を神の国に招こうと、とりなして、とりなして働いています。
 そして、目には見えないこの聖霊の働きを見、この聖霊の働きに連なり、望みを神さまに向けて生きる者たちは<神の子たち>と呼ばれるのです。
                   ●11月28日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-11-21 16:59:54 (1600 ヒット)

               【無二の土の器】
 パウロの端的な人間理解は「あなたがたは神の作品である」(口語訳エヘェソ2:10)という言葉に表されています。人間個々人は、型にはまった「製品」なのではなく、神さまから創られ、この世に命を与えられた無二の存在なのです。
 と同時に、「わたしたちはこのような宝を土の器の中に納めています」との言葉が表すように、人間は弱く崩れやすい「土の器」でもあるわけです。「無二の土の器」。このかけがえのなさと弱さ脆さこそが、人間の本質であり、生命存在の尊さだと言えます。
 その固有の姿に、それぞれ異なった賜物が与えられています。それら賜物とは、世の人々が言う「能力」のことではなく、神さまの御業の素晴らしさ(宝)を受けとめる「器としての」意味性です。一人ひとりは、この賜物を与えられています。
 世の中は、生産性や効率性や貢献度で人を測ることに慣れてしまい、どうやら賜物に気づき、賜物を発見する力を喪っているようです。それはとりもなおさず人間を観る目を喪いつつあることを意味していますし、人が、自分を発見してもらえない世界に生きていることなのです。
 しかし私たちは、互いに賜物を発見しあって生きて行きます。それが、教会という交わりの素晴らしさです。
                  ●11月21日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-11-14 17:24:57 (1421 ヒット)

               【人生と困惑】
 パウロは(パウロでさえ)、「罪を脱したいと心底願いながら、そこから脱することができない」と呻いています。
 私たちもまた、「罪なき者」でありたいと望んでいますが、どうしてもそうなりません。自らをむち打つようにして罪を抑えようとしても、自己というものがあり、肉体というものがある以上、私たちは罪から離れることはできないのです。
 人間が「生きる」ということには、根源的に「罪の困惑」が伴っているのではないでしょうか。ただし、考えてみれば、この困惑や苦しみを憶えることは、人間としてとても素敵なことでもあります。何をしようがお構いなし。誰を泣かそうが無関心・・・。決してそうあることはできず、良心や良識を持ち、道義や道理をわきまえるからこそ、ましてや、神の前に立っていることを知るからこそ、私たちは苦しみ、困惑するのです。それが人間というものです。
 しかし、その罪の中に生まれたもうたキリストを私たちは信じるのです。罪に死に、永遠の救いによみがえらされたキリストに私たちは与るのです。神の国は、実にこの罪人の中にあるのです。
                   ●11月14日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-11-08 17:20:26 (1757 ヒット)

               【罪に死に、キリストに生きる】
 バプテスト教会に来て、初めてバプテスマ式をご覧になった方はたいていびっくりなさいます。礼拝の途中でザブンとやるわけですから。「講壇の後ろには水槽があったのか!」と初めて知る方もおられます。
 一般的に知られる「洗礼」という言葉が示すように、バプテスマは罪の洗い清めを象徴しています。しかし、聖書の真意によれば、それは単なる洗い清めではなく、「死と復活」を指し示すべきです。
 水に沈める。それは、キリストと共に罪に死ぬ事を意味します。そして、水からの引き上げ。それは、キリストと共に新しい命に復活する事を意味するのです。
 クリスチャンになるとは、言い換えれば「生きている内に一度死ぬ」ということです。死ぬべき罪人として死ぬ。滅ぶべき罪人として滅ぶのです。ただし、その死、その滅びは、キリストが十字架で背負ってくださいました。私たちは、キリストの死に与っています。そして、彼がよみがえらされたことによって、その復活の命にも与っているのです。今日、記念する先輩方は、この罪人の死と復活の命に与る信仰を得、永遠の命の歓びの中で地上の生涯を終えて行かれたのです。 
                ●11月7日週報巻頭言 吉高 叶


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