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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-06-20 17:34:19 (1625 ヒット)

 I子さんのことを紹介させてください。彼女は、2年前の5月に、栗ヶ沢教会にオルガンを献品してくださった女性です。わたしたちの教会のE.W.姉がガンで闘病していることを気にかけ、お見舞いにきてくださった帰りがけに、新築したこの教会に立ち寄ってくださり、そして、この教会の音響の素晴らしさを喜んで、自分の大切にしているアールボーンのオルガンを献品してくださったのでした。
わたしたちは、心から感謝をし、直後の7月6日に、彼女を礼拝にお招きし、証しと演奏をお願いし「奉献礼拝」をいたしました。礼拝後の音楽研修会でも、I子さんは、たくさんの「こども賛美歌」を、愛らしいさわやかな声でうたって、教えてくださいました。わたしたちは皆、「ああ、この方は、ほんとうに賛美歌が大好きなんだなぁ」と感じました。
けれども、ほんとうに驚いたのですが、それから数ヶ月後に、彼女は脳腫瘍で倒れました。卵大の大きさの腫瘍を摘出する大手術を経て、一度は、職場にも、教会にも復帰なさいましたが、それから二度の再発によって、今は、重篤な状態の中におられます。

今年の4月19日に、E.W.さんとご一緒に、I子さんのホスピス病棟を訪問しました。彼女のおつれあいが、見舞客のために記したノートにはこう書いてありました。
「I子に対して、治療として為すことは、もう何もありません。痛みの緩和ケアをいただき、最期のときを過ごしています。担当医からは、余命2ヶ月と言われています。いつも、お祈りありがとうございます。」
一瞬、愕然としましたが、笑みをたたえたまなざしで迎えてくださったI子さんに「一緒に賛美歌を歌いましょう」と語りかけると、目の輝きがぐんと増し、コクリとうなづいてくださいました。
「自分も少し起きあがりたい」と仕草をしました。胸から上を少しだけ傾けて、<飼い主わが主よ>をいっしょにうたいました。I子さんも、とぎれとぎれの声で、いっしょに歌いました。メロディーを追う力はありませんでしたが、歌詞を口でたどり、4節まで一緒に歌いました。「われらは、主のもの、主をのみ愛す。アーメン」

讃美のリーダーとしての、またオルガニストとしての賜物を受けてきたI子さん。でも、今、ベッドの上で、そうする自由を彼女は失っていました。けれども、「賛美」は彼女から失われていませんでした。声がどんなにかすれていても、小さくても、「賛美」は神さまの前で、何一つ欠けてはいないのです。神さまを賛美する命として彼女は、そこにいました。人々の心に、賛美することの素晴らしさを証しする人として、彼女は、そこにいました。彼女の姿のすべてが「賛美」でした。

あの訪問の日から二ヶ月が経ちました。彼女はいま、面会謝絶です。鼻から胃への経管栄養の処置を受け、静かな息をすることだけがゆるされた中を、精一杯、生きておられます。神さまにつながって、息を吸い、息を吐く。わたしは思います。彼女にとって、毎日の、その静かな呼吸は「賛美」だと。彼女が、神さまに召されるのがいつなのか、わたしたちにはわかりません。けれども、その最後の一息まで、彼女の息は「賛美」だと感じます。  
●音楽礼拝の説教より  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-06-13 20:37:33 (1659 ヒット)

            【神の愛と約束に命を委ね】
 かねてからユダヤ教の内部では、復活をめぐる論争がありました。サドカイ派は、復活も霊も天使も否定し、人間の存在は死の際に滅びてしまうと考えました。ファリサイ派は、復活を説いていました。この世での努力・尽力が「あの世」で報われるのだと、未来に罰や報いを持ち越そうとしました。
 一方は、復活を否定することで「今の生」を絶対化する道であり、他方は、「今の生」を未来に延長させることによって「今の生」を絶対化する道です。まったく違うようであって、本質において何も変わらないのです。
 主イエスは、そのどちらも「思い違い」だと言います。神が、測り知ることのできない方であるように、復活の生もまた秘められています。それを、「無い」とか「こうだ」とか人間が決めるならば、どこまでも「思い違い」なのです。実に、自分の命をさえ知り得ない私たちではありませんか。命を与えている神の御心の前に、秘儀を秘儀とし、神の愛と約束にこの命を委ね、復活を信じつつ、生かされている今を精一杯生きることが大切です。   
                      ●週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-06-08 07:24:57 (1416 ヒット)

              【恵みと感謝の循環】
 神殿税の徴税係の人物がペトロを問いただします。あなたの先生イエスは神殿税を納めているのか!と。
 神殿税を納めているかどうか。それが信仰の正統性や熱心さを計るリトマス試験紙のように考えている人々が大勢いました。そして多くの庶民は、ローマが課していた重税に加えて、この神殿税を仕方なく支払わねばなりませんでした。ユダヤ社会からはじかれてしまわないためです。
 制度化された宗教体系の中で人間の心が操られ、いつの間にか、まっすぐに神様の恵みと人間の喜びがつながれなくなってしまうことをイエス様は悲しんでおられました。信仰の喜びとは、律法の圧迫によってではなく、解放と感謝によってもたらされるからです。
 私たちを我が子として愛する神の祝福が先ずあって、その恵みの流れの中で私たちも神様を礼拝し、神様に献げ物をしていく循環に与ります。この循環の中を生きる喜びを忘れてしまうとき、「献げ物」は、「税金」や「会費」や「料金」などといった、まったく別のものに化けてしまうのです。
          ●週報巻頭言(テキスト・マタイ福音書17:24-27) 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-06-02 22:11:55 (1463 ヒット)

                 【ふくらんでいく天の国】
 マタイ13章には、いくつかの「種の譬え話」が集められています。「譬え話」とは、その全体を通して「一つのこと」に気づかせようとする話法です。主イエスは、生命の真の源としての神さまと、生命を受けて生きる人間との関係性を、これらの譬え話を通して教えてくだっています。それが、種と土の関係であり、酵母と粉の関係です。生命には、神さまという真の核・真の主体があり、人は、それを受けとりながら、自分自身の人生の主体となっていく。この神と人の「原本的な関係」を憶えよと言うのです。
 天の国(神の国)とは、死んだ後の世界ではありません。神の支配のことであり、それはすでに私たちの命の中に吹き込まれていますし、私たちの人生の中で始まり、育っていくものです。と同時に、人間には「自由」が与えられていますから、その神の支配という種を芽吹かせることなく生きることもできます。しかし、もし、神さまと私たちの関係に気づきながら生きるなら、天の国は、豊かにふくらみ、私たちの人生を包み込んでくれるのです。
              ●5月30日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-05-24 18:41:15 (1555 ヒット)

 みんなは「それ」を何といっているか。「彼」のことをどう考えるか。三人称で物事を捉えることを<認識>と呼びます。イエス様のことを、当時の人々は、経験や学問に照らして「彼は○○だ」と評論していました。面白いほどにいろんな認識が並びました。
 けれども、イエス様は弟子たちに向き直って「では、あなた(たち)は、私を何と言うか」と問いかけます。<告白>とは、このように一人称・二人称の関係の中で引き起こされるものです。教会は、神について学ぶ場所ではありません。救いについて考える場所ではありません。交わりについて検討する場所ではありません。それらは、全て三人称の作業です。
 教会は、一人称・二人称の世界を生きています。「イエス様、あなたは、わたしの救い主です。」「わたしたちは、あなたこそ神と信じ、礼拝します。」そして「私たちは、交わります。」
 イエス様を「あなた」として向き合う「わたし」や「わたしたち」が生きているところに、教会の何とも不思議なパワーと一致が生み出されます。
                ●5月23日週報巻頭言 吉高 叶


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