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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-05-24 18:41:15 (1543 ヒット)

 みんなは「それ」を何といっているか。「彼」のことをどう考えるか。三人称で物事を捉えることを<認識>と呼びます。イエス様のことを、当時の人々は、経験や学問に照らして「彼は○○だ」と評論していました。面白いほどにいろんな認識が並びました。
 けれども、イエス様は弟子たちに向き直って「では、あなた(たち)は、私を何と言うか」と問いかけます。<告白>とは、このように一人称・二人称の関係の中で引き起こされるものです。教会は、神について学ぶ場所ではありません。救いについて考える場所ではありません。交わりについて検討する場所ではありません。それらは、全て三人称の作業です。
 教会は、一人称・二人称の世界を生きています。「イエス様、あなたは、わたしの救い主です。」「わたしたちは、あなたこそ神と信じ、礼拝します。」そして「私たちは、交わります。」
 イエス様を「あなた」として向き合う「わたし」や「わたしたち」が生きているところに、教会の何とも不思議なパワーと一致が生み出されます。
                ●5月23日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-05-24 18:40:03 (1498 ヒット)

 本日の聖書テキスト(マタイ8:18-27)には「嵐を静めるイエス」の事件が含まれています。いわゆる奇跡物語です。けれども18節からの文脈全体からは別のテーマが響いてきます。
 イエスに従う道においては、/諭垢らの拒絶を受けること ⊃閥瓩平諭垢箸侶菠未鯒られること M鬚里茲Δ丙て颪冒遇すること、が待ち受けているということです。つまり、主イエスと共にあれば「嵐が起こらない」のではなく「嵐に出会うだろう」と、私たちの期待とは逆のことを、このテキストは言っています。
 ただし、さらに重要なことですが、その嵐の中でこそ、人は真にキリスト(救い主)と出会うのだというのです。
 「人はどこで神を見いだすのか」。それは人間の望む平穏な場面でではなく、順調な流れの中ででもない。まさに危機と揺さぶりの中で、人は、神を、救い主を発見するのです。しかも、「向こう岸へ渡ろう」という主の招きに従う中で改めて己(おのれ)が揺さぶられ、その揺さぶりの中で、ほんとうにキリストと出会うのです。
                       ●5月16日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-05-09 22:09:30 (1405 ヒット)

                  【聴いて建てる家】
 多くの御利益信仰は、今必要なもののために祈願をします。しかし、聖書は「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認すること」だと教えます。創世記に登場するノアは、箱舟をつくりました。長い年月がかかったでしょう。誰が見てもばからしく思えたその箱舟によって、しかし彼らは守られ、洪水の中から救い出されました。そのように、私たちは、今必要なもののためだけに働くのでなく、本来必要なものや、やがて決定的に必要になるもののために働き、生きることが大切なのではないでしょうか。
 人間の存在価値が、カネに換算されモノのように扱われる非人間性の洪水の中で、私たちはそれらに流されたり、損なわれたりしてはならない貴い命なのです。主イエスは、私たちの命を慈しみながら、堅い岩の上に家(人生)を建てよと呼びかけてくださいます。
 キリスト教信仰は、聖書を読みながら、本当に必要なものは何か、いざという時、やがての時に大切なものは何か。命と人生を支える土台は何か。それをたずねて生きる信仰です。
                   ●週報巻頭言5月9日 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-05-09 22:06:45 (1533 ヒット)

             【主の祈り・世の祈り・命の祈り】
 祈りの熱心さとは何でしょう。熱心な祈りとは何でしょう。
 自分の中の願いが膨れて、そこから神の業を起こそうとするのではなく、隠れたことや人間にほんとうに必要なものを既に知っている神様の御心に聴こうとすることが祈りの本質だとするなら、熱心な祈りはいよいよ沈黙に近づいていくのではないでしょうか。
 とはいえ、祈りは瞑想ではありません。現実の生の中から天の父に向かい合って交わされる対話でもありますから、現実の生にうごめく様々な感情や求めが心から口にあふれ出さざるを得ないでしょう。ただ、そこにおいてなお、神の御心に聴く位置に居続けていなければならないのです。
 主イエスが教えてくださった「主の祈り」は、祈りの一例ではありません。祈りの本質と限界を教えてくれています。人は何を祈るべきか。そして人は何者として祈っているべきかをです。
 人は、祈りにおいて、人間の力の限界や生の範囲を学ぶのです。と、同時に、神の祝福と愛を知るのです。そこで、真のいのちの姿が創られます。
                                                  5月2日週報巻頭言より


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-04-25 22:40:28 (1477 ヒット)

            陽は昇る。善き命のために
 私たちはこの世にあって、善や悪について思いめぐらせます。また、「善人」に出会っては清々しい気持ちになり、「悪人」を見ては憤ります。そして、悪には報いがあるように、悪人には裁きがあるように、と心に念じていたりします。それは人間の普通の気持ちだと思いますが、危険も潜んでいます。人間は、それらの怒りの解決のために神を登場させます。悪を、悪人を滅ぼしてこそ神である、と。いつのまにか、私たちは、悪の力とそのしぶとさの前に心を連れて行かれ、自らの心を怒りでいっぱいにしてしまうことがあります。
 そんなとき、心を神の御心に向けましょう。そして気づきましょう。どのように映ろうとも「悪人」がこの世界を決定しているのではない。神さまが、全てに先立ち、全てを決定しておられるのだということを。
 今日も、新しく陽が昇ります。善い人の上にも、悪人の上にも。善きものをお創りになり、善き一日へと私たちを招き、祝福する神の恵みは、今日も何一つ変わっていないのです。
                   ●4月25日 週報巻頭言 吉高 叶


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