【再生の町】 ヨシュア記20:1−6
カナンに移住したイスラエルの民(12部族)が、それぞれの部族ごとの居住地を定めた後、「逃れの町」をつくりました。過って人を殺してしまった人が、報復から逃れるための保護区域です。
過失による殺人。これは人間にとっては、過失の中の過失。残すところ最大の禍根の中の禍根だと言えます。その過失を断罪し、死をもって報いる方法も一つです。けれども、過失を犯した本人が、罪責を背負い、赦しを請い、誠実に生き、もしも、赦しを受け、再生することが可能ならば・・・。憎しみと禍根が、ただ絶対化、永久化されるだけではなく、別の何かに変えられる奇跡が起こるのだとしたら・・・。人間の再生、関係の再生。神さまは、人間を簡単にはあきらめなさいません。そして、神さま自らが、この逃れの町の主であられます。
今日から世界祈祷週間です。これまで牧師・宣教師、奉仕者を派遣してきた諸国、諸地域のどこにあっても、禍根の克服、癒しと再生のテーマは響いていました。わたしたち自身が、赦され、再生されていくべき者であることを知らされてきた活動ではなかったでしょうか。
●11月27日週報巻頭言 吉高 叶
【創造主に心を留める】 コヘレトの言葉12:1
11月15日の朝日新聞・文化面に「いま、宗教を知りたい」という特集記事がありました。東日本大震災以降、原発関係の書籍に並んで、宗教の入門書や、僧侶やキリスト者のエッセーなどが続々と刊行され、よく売れているということです。また「宗教と社会」学会の学生宗教意識調査によると、非宗教系大学に通う学生2,003人中、「信仰がある」と答えたのが7.5%、「宗教に関心がある」は46.4%、また21.6%が「宗教は人間に必要だ」と答えたのだそうです。
宗教とは、世界観のことです。日本に永年漂ってきた社会的な価値観が崩壊し、無秩序な状態に不安を抱き、個人責任的な放り出され方に耐えられなくなった人々が、一人の人間の人生を抱擁し、意味づけたり方向付けたりする「大きな支え」を求めているのではないでしょうか。また、2万人に及ぶ「大量死」をまのあたりにし、今、「死」を身近に感じる中から、死生観と直結する宗教に関心を持ちはじめているのかもしれません。
そのような、高まってはいても「漠然とした関心」の中に、はっきりと、愛と祝福の神さまを、伝えていきたいです。
●11月20日 週報巻頭言 吉高 叶
【愛と祝福にはさまれて】ヨハネ福音書1:1-3、黙示録21:1-7
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」
私たちは、ふだん「自分の初めとは何か」などと考えて生きることは滅多にありません。「そんなことより、いま現在のことや、先行きのことで心がいっぱいです」というのが、本当のところだろうと思います。しかし、誰もが、ふとした瞬間に「自分の存在意味」について、すなわち、自分は何故に生まれ、存在するのだろうかと考えるのです。
聖書の言う「初め」とは、「根源に」という意味です。まさしく、生命存在の根源に何があったのか、という存在論的な問いに対する答えなのです。聖書(ヨハネ福音書)は、「初めに言があった」と言います。「言」とは神の想いのことです。愛と祝福の想いのことです。ですから「初めに、神の愛と祝福があった」と言っているのです。「造られたもののうち、愛と祝福によらないものは何一つなかった」と。
この神さまの愛と祝福が、初めであり終わりなのです。すべての生命と人生は神さまの愛と祝福によって始まり、神さまの愛と祝福によって結ばれるのです。
●11月6日召天者記念礼拝 週報巻頭言 吉高 叶
【「無理」の川底から石を運べ】ヨシュア記4:1-9
40年に及ぶ荒野の旅を終え、いよいよ約束の地・カナンに足を踏み入れようとするイスラエル。けれども、ヨルダン川に行く手を阻まれます。その季節、ヨルダン川は雪解け水が勢いよく流れ込み、とても徒歩で渡ることなどできません。「無理」が立ちはだかるのです。
しかし、主なる神は、かつて海を割り、民を進ませられたように、此度も流れを堰き止め、道無きところに道を通されました。
すでに世代交代を成し遂げていたイスラエルの民らは、改めて、自らの経験としてこれを追体験するのでした。そして、川底の石を運び、カナンの地にそれを据え、記念と記憶の碑としたのでした。石の重みは、神の祝福の重み、民への愛の重みでした。民は、12の部族が共にその重みをかつぎ、祝福をわかちあったのでした。12分の12。決して12分の1ではありません。経験は、一人一人の経験でありました。驚きと喜びは、一人一人の心に刻まれたのでした。
12の石が、会見の幕屋を取り囲むように宿営に置かれます。やがてその12の石塚は、「生ける神」への信頼と聴従を、次世代の子どもたちに伝える「教育の礎」となっていったのでした。
●10月23日週報巻頭言 吉高 叶
【ピスガの山頂】申命記34:1−12
卓越した預言者であり、指導者であったモーセ。彼は人生の完結の時を迎え、ピスガ山の山頂に立ち、イスラエルの民がこれから進んでいく「約束の地」を見渡しています。眼下に広がる平地と、おびただしい数の民とは、まさにアブラハムが聴き、イサク、ヤコブへと受け継がれた夢の成就でした。
モーセ自身は、その約束の地に入ることを許されませんでしたが、彼はその目で、主の約束の確かさを見たのでした。それは、モーセ自身が、これまでの人生の意味を味わう至福の時であったでしょう。と同時に、彼モーセは、自分自身が帰るべき真の故郷をも見たのだと思います。
約束を見、神の恩寵を見、歴史を見、未来を見、人生を見、天の故郷を見る。それが、ピスガ山頂からの眺望でした。
わたしたち一人ひとりの人生にも、やがてピスガの山頂に立たせていただく日が訪れます。十分にいただいた人生の道を思い、と同時に、まだ手に入れていなくても、それを受け継ぐ未来へと夢をつなぎ、帰るべき天の故郷を鮮明に見ることのできる、そんなピスガ山頂の時に向かって、今日も歩んでいるのです。
●10月16日週報巻頭言 吉高 叶