【創造と祝福】
宗教改革者マルティン・ルターにこんな質問をした人がいました。「神は、世界を創造される前にはいったい何をしていたのか?」。ルターは答えたそうです。「そのような無用の質問をする者たちのために鞭をこしらえておられた」と。
この返答の意味は、単に質問者を撃退することにあったのではありません。神が恵み深い創造主だと認められないなら、人間は怒りと苦しみの人生を生きるしかなく、死をもって虚無に落ちてしまうしかないという人間の生命の本質を言いあてたのです。
はじめの前には何があったのか。そのまたはじめの前には何があったのか。人間の思いは、決して「はじめ」に到達することができません。人間は実のところ「はじめ」を手にすることができないのです。聖書の書き出しの「はじめに」は原語では“ベリーシース”。「根源において」という意味の「はじめに」です。単に時間的な意味合いだけではなく存在の根拠、「なにゆえに」とも置き換えられる「はじめ」です。そして、私たち生命にはみな、存在の根源と根拠があります。それが、神の言です。
●5月1日巻頭言 聖書・創世記1章 吉高 叶
【終わりなき始まり】
イエスの復活。それは人間の経験的な知識によって理解するものではありません。科学的な根拠によって承認する類のものでもありません。「復活」、それは信仰によって受け取るものです。
イエスの復活のメッセージは、「人がいったん死んでも蘇る」という物理的問題のことではなく、「人は罪赦され、新しく生きることができる」という人間の霊的な転換への招きなのです。「私は罪赦された。」「主イエスが新しい生に招いてくださる。」この信仰的経験と復活
信仰は切り離せません。
ところで、東日本大震災の犠牲者の家族や被災者たちを、最も深いところで苦しめていく問題の中核には、「死や苦しみの受容」と「生き残ったことへの罪責感」があると思います。社会や生活の復興はもちろん大切です。しかし、同時にこの苦しい問いに一緒に向かい合い続ける続けようとする人間のつながりがとても重要です。人間を苛む「死と生と罪の問い」を忘れず、自分のこととして共に苦しみながら、罪を赦し人間を新しい生へと招く復活のイエスとの出会いを求めていきたいのです。
●週報巻頭言より 吉高 叶
【壺を割る時】
「こんな時に、そんなことするべきじゃない。」そこにいた誰もが彼女を叱責した。
彼女がとつぜん香油の壺を割ってイエスにふりかけたからだ。部屋いっぱいに甘い香りがたちこめた。が、帰ってきたのは男たちの怒号。「もったいない!」「他に使い道があるだろ!」・・・
彼女は、もったいないと思わなかったから壺を割った。その香油は、彼女が人に言えないような苦労を忍んで蓄えてきた人生の闘いの証。これからも自力で生きていくための拠り所。きっと彼女の全身の力が詰まった壺だったに違いない。
でも、彼女はそれを、もうもったいないと思わなかった。主イエスの声を聞いたから。この人のまなざしに接したから。「他に使い道を考えてみろ」と怒鳴られた。でも、今の彼女には、主イエスの前で、自分を必死に支えてきた心の力を抜き、もう自分を明け渡し、感謝と喜びをあらわすことだけが、唯一思いついた自分自身の使い道だった。
十字架の時が迫る中、主イエスは人々の怒りの中に呼びかける。「彼女の献げ物は、いつまでもわたしの死の記念となるだろう」と。
●マルコ福音書14:3-9 4/17週報巻頭言より 吉高 叶
【つながれて、運ばれて】
思えば、私は決して自分ひとりの力でキリストと出会えたのではなかった。私に先んじてキリストを知り、キリストを見上げながら私を憶え、私のことをキリストに祈り、キリストのところに私を連れ行こうとしてくれた、幾人もの人々の手を通して、私はキリストに出会った。
わたしを担ごうとしたとき、きっと重かったはずだ。屋根を剥がすような冒険をしてくれたのかも知れない。そして、キリストが私を受け入れてくださったのも、そのときの私の信仰によってなどではない。私をキリストにつなげようとする人々と私の「つながりの姿」を、主がたいそう喜んでくださったからなのだ。
だから私は、あまりに自分の信仰の強さ弱さをなどを、自分勝手に云々するのはよそう。信仰とは、私の知識や理解の度合いのことでなく、つながりのことなのだから。キリストにつながり、この人につながり、慰めと祝福につながり、希望につながろうとする関係のことなのだ。
だから、誰ともつながらないで、独りっきりで信仰を考えているようなことはやめ、祈り祈られ、今日も誰かと一緒にキリストのところに行こうとしていよう。
●テキスト マルコ福音書2:1-12 週報巻頭言 吉高 叶
【主イエスについていく】
魚を獲(と)る。それがこの男たちの生業だった。岸辺に立ち、湖面をにらみ、舟を送り出し、網をうった。さあどうだ。引きあげる腕にあの嬉しい重みがくい込むか。その喜びと落胆が、男たちのすべてだった。魚を獲る。糧を得る。それゆえに生き得たし、そのために生きた。それしか知らなかった。櫓のきしみ、湖面をたたく網。その音だけを聞いて男たちは生きていた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」 突然、声を聞いた。生まれてこのかた聞いたことのない言葉だった。彼が誰で、どこへ行くのか。何もわからなかったのに、なぜだか、からだの真ん中に熱のかたまりが生まれた。
「ついていく」という生き方など、考えたこともなかった。が、そこに、知らないでいた生き方があるように思えた。
「ついていこう。」輪郭もわからないまま、男たちは、こみあげてくる熱いものに身をゆだねた。
人間をとる。彼・イエスのあとに従った男たちは、やがてそのしごとに伴う痛みと愛の深みに触れていった。そして、あの日の熱いものが冷めることはなかった。
●聖書マルコ福音書1:16-20 週報巻頭言 吉高 叶