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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-10-10 21:44:54 (1476 ヒット)

             「神の恵みからの出発」
 パウロが明確に取り次いでくれた福音は、「救い(神様から義とされること)は、律法(人間の努力の積み重ね)によってもたらされるのではない。ただ信仰によって義とされるのだ」ということです。これをキリスト教では「信仰義認」といいます。
 すると、すぐに勘違いしてしまうのが、「それでは、信仰を強くしなければならない」ということです。もし、人間の信仰心の強さが人間を救うのなら、それも律法と同じ事になります。
 そうではなく、人間のあらゆる善や行為と関係なく、ただ神様の恩寵によって、罪人であるがゆえに滅ぼされなければならない私が赦され(そのためには、裁かれねばならない罪の裁きをイエス・キリストが代わりに背負われたのですが)、義とされたのです。信仰とは、この神の恵みを信じ、受け入れるということです。一般真理としてでなく、神様が私のためにしてくださった御業として、これを信じ受け入れるとき、この恵みの業(救い)が、私の人生に実在する出来事となり、救われた者としての生が立ち起こるのです。人間の救いにとって、必要な総ての業は神様が成し遂げてくださっています。人は、それを信じれば良いのです。
            ●10月10日 週報巻頭言  吉高 叶 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-10-05 21:39:43 (1421 ヒット)

          「生きていて欲しい。生きていきましょう。」
 神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。聖書 ヨハネ福音書3章16節

  日本では、一年に3万人以上の人たちが自殺するという現実が、もう10年以上続いています。以前は1万数千人が亡くなる交通事故死のことを「交通戦争」と呼びました。今、この悲しい事態を何と言い表したら良いのでしょう。ほんとうに心が痛みます。
 時々、どうしようもない現実の中で、生きていてもしようがない、生きる意味なんてどうでもいい、死んだ方がましだと感じてしまうことがあるかもしれません。インターネットでも自殺の仕方を教えたりするサイトがたくさんあります。それに、評論家の中には、自殺を肯定したり、「それもわかる」なんて語る人もいます。でも、決してそういう声になびかないでください。そう言っている人たちも、みんな生きているではありませんか。
 人生には、確かにとても辛いことがあります。でも良いことが長く続かないのと同じように、悪いことも長くは続かないのです。人生というものは、良いことと悪いこと、嬉しいことと辛いことが、縦糸と横糸のように織りなされながらできていくものなのです。今の空しさ、今の厳しさが、あなたの最後の縦糸なのではないのです。
 聖書は、「わたしが存在している目的は何か」という問いに対して、それは、神さまの愛を受けとめる器として存在しているのだと教えてくれます。あなたという存在そのものを大切にしてくださる神さまがいます。たとえ世の中が、能力や効率とかのことで、あなたを評価しなくっても、あなたは、あなたという存在そのもので価値があるのです。
 神さまは、ひとり子イエス・キリストをくださったほどに世を愛されました。世とは「あなた」のことです。あなたにとって、自分の居ない「世」は無いに等しいでしょ?
 どうか自分のいのちの重さと、価値の大きさに心をひらき、そのことを信じてください。大丈夫です。生きていく力は新しく生まれます。あなたは愛されているのです。
                『GoodNewsしらかば』2010年10月号 巻頭言 ●牧師 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-10-04 12:23:08 (1780 ヒット)

            【福音を恥としない】
 福音とは、神の愛のことです。どのような愛かというと、イエス・キリストによって現された愛のことです。主イエスが、そのご生涯の中で人々に注いだまなざしや御業に示された愛。主イエスが十字架で果たされた、罪を背負い裁かれつつ、罪人を赦す愛。しかし、そのイエスを死人の中から復活させる神の愛です。
 この神の愛が福音であり、この愛がこの私に注がれたのです。福音とは、「この私は、イエス・キリストをいただくほどに神から愛されている」ことです。
 福音を恥としない。「恥とする」とは他のものと比べて「小さいものだ」と考えることです。私たちは、神から愛されていることを、他のものよりも小さいことにしてはいないでしょうか。神の愛以外の、何か別のものでも生きていける、とか、キリストの十字架の赦しが無くても問題はないと感じていないでしょうか。
 福音を恥じとしない。それは、神の愛を受け、赦しを受けて生きる人生を感謝し、十分に用いていこうとすることです。と同時に、福音が、神から全ての人への贈り物であることを喜び、隣人に証ししていこうとする人生のことです。
                ●10月3日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-10-02 15:28:17 (1686 ヒット)

             【ありがとう この愛】
 韓国は日本と同じように自殺の多い国です。特に激烈な受験戦争を背景として、若者たちの自死が多いのです。
 神の愛に気づき、生きる勇気を取り戻して欲しい。そんな祈りの中から「君は愛されるため生まれた」という曲が生まれました。多くの若者たちの心をとらえメガ・ヒットを記録したのでした。
 私は愛されるために生まれた・・・しかし、それだけだろうか。人間の生の喜びは、そこから「愛するために生まれた」ことを知ることではないのだろうか・・・。
在韓ソウル日本人教会の吉田耕三牧師は、ソングライターのソル・キョンウクにそのメッセージを届けます。そして生まれたのが、現在ヒット中の「もうひとつの実を望まれ」です。
ありがとう気づいてなかった
どれほど愛されているのか
はじめから今まで神の愛は
いつも注がれていたこと
ありがとう その愛教えてくれた
主から与えられた君に
キリストの愛でもっと仕え
私もこの世に仕えよう
君は愛されるため
そしてその愛伝えるため
主から選ばれて
この世に植えられた
もう一つの実を望まれ
              ●9月26日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-09-19 15:25:21 (1457 ヒット)

                【旅路の助け】
テキスト 詩編121篇
 「目をあげて、わたしは山々を仰ぐ」。人生は旅である。旅人は、これから進みゆく山々を見渡し、果たしてそこに何が待ち受けているかを想い、不安と恐れで足がすくむ。「あぁ、私の助けはどこから来るのか」。これはまさに人生の問いである。
 人生の助けはどこから来るのだろう。資本主義からか、共産主義からか。政府からか、会社からか、弁護士からか、福祉制度からか。同僚からか、友人からか。それらの助けには、必ず条件と打算があり、時には裏切りや罠がある。
 人生の真の助けは、天地とわたしの生命を造られた主のもとから来る。真の助けとは、戒めと愛と赦しとが一体となったもので、それはまさに、私の生命そのものに関わりと責任をもってくださる主なる神のまなざしの中から出てくる。
 そして、主のまなざしは、まどろむことがない。私たちが、もうそれ以上できない時に、主は働かれる。もうそれ以上立っていられない時に、主が立ち上がられる。もう横たわるしかない時に、主が起きあがってくださる。旅路に必要なものは、この助けへの信頼である。
                ●9月19日 週報巻頭言 吉高 叶  


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