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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-31 17:28:00 (1541 ヒット)

【「復活祭」をあなたの人生の祝祭に】
イースターおめでとうございます。
私たちが救い主と仰ぐ主イエスが「十字架の主」であられることに、私たちはどれほど慰められ、支えられていることでしょう。私たち教会員は、自分だけでなく、兄弟姉妹の受ける人生の苦しみを知っています。生きる道に影を落とす不運、病い、不条理。何もしてあげられない自分の弱さ。ただ、ただ、十字架の痛みをご存知のイエス様にすがり、イエス様だけは、彼/彼女と一緒にいてくださることを信じて祈ることをゆるされて来ました。
そして、私たちが救い主と仰ぐ主イエスが「復活の主」であられることに、私たちはどれほど励まされ、勇気づけられてきたことでしょうか。出口が見えないトンネルの中でも共に祈り、愛する家族を亡くした悲しみの中で、ご一緒に御国の約束を聞きました。復活のイエス様の前で、私たちは兄弟姉妹であれました。
イエス・キリストを一緒に仰ぎ、その前で泣き、笑い、大切なことを受けとめ合った16年。ありがとうございました。
復活のイエス様の前で、お別れできますことを心から感謝しつつ。
●3月31日週報巻頭言  吉高叶

吉高叶牧師は本日をもって栗ヶ沢教会牧師を退任、4月1日よりバプテスト連盟常務理事に就任されます。
16 年間の牧師としてのお働きに心より感謝しつつ、連盟でのお働きが祝福に満ちたものとなります様お祈り致します。
就任礼拝4月25日(木)18:30(所:連盟事務所)



投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-24 19:55:19 (1519 ヒット)

           【十字架、神の義と愛の闘い】
どうして、この私の救いのために、主イエスは十字架にかからなければならなかったのか?この問題は、生きる間中、繰り返し身に迫ってくるテーマである。
私という罪人を赦すなら、「赦す」と宣言して放免すれば良いだけではないのか?なぜ、神は、独り子を犯罪人の一人として十字架に掛け、人々からの嘲弄、弟子たちの裏切り、神の沈黙、肉体の極限的な苦痛、そして渇き切った死を味あわせたのか?そこに、わたしの何があるからだ、と言うのか?
十字架は、神の義と神の愛が交差するところだ。神が義でなければ、この世界に秩序も倫理も何もあったものではない。罪は断罪され、悪は裁かれねばならない。しかし、そうだとしたら、果たして私は神の前に立っていられるのか?
しかし、神は「愛の神」であられた。裁かねばならないこの私を、赦すために「義にして愛なる神」がどれほど苦しんだことか。「赦す!」私への愛を選ぶために、神の義の剣は誰に向かったのか。
十字架は、神が私に対して、義ではなく愛の神であろうとしてくださった神の闘いの場であったのだ。
●3月24日週報巻頭言 吉高 叶
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-24 19:53:03 (1520 ヒット)

                     【福音伝道・私たちの喜び】
バプテスト教会では、よく「牧師だけが献身者ではない、信徒も献身者だ」と言われます。その通りだと思います。
バプテストが誕生する前のキリスト教世界は、いわば幼児洗礼が基本でしたから、生まれたらクリスチャン、生まれたらすぐにその土地の教会員となりました。ですから、人々は「伝道する」という動機をほとんど持ち合わせていませんでした。
バプテストはそうした自動的信仰に疑問を持ち、キリストの贖いと復活を主体的に受け止め、告白し、キリストに従う人生を決意し、「信仰告白共同体」をつくっていくようになりました。更に、その共同体を広げ、継承していくためにも、バプテストにとって伝道は避けて通れない労苦であり必然でした。
長い歴史を経て、初代教会の使徒たちの伝道の姿を取り戻したのがバプテストだったのです。伝道は、弟子たちの復活体験の衝撃と主イエスのご命令と派遣にさかのぼります。そしてペンテコステ(聖霊の賦与)によって動き始めるのです。
伝道するとは、「復活の証人」となることです。希望と命の光の中に人々を伴い行く、喜ばしい労苦なのです。  
  ●3月17日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-09 10:31:37 (1436 ヒット)

               【随想 被災地に、虹よ、かかれ!】
二年目となる3.11を前に、被災地・釜石市を訪れ三日間を過ごすという導きをいただいた。瓦礫の撤去が終盤を迎えつつあるということ以外に、復興の「ふ」の字も始まっていないかのような釜石の現実に愕然とした。訪ねた大槌第7仮設の被災者たちは、バプテスト連盟が贈った談話室の中で笑顔で接してくださったが、二年経っても再生の手がかりが見えないままの仮設住まいの疲れを確かに背負っておられた。この間、方々で歌われている「花は咲く」を、まだ歌う気になれないとのことだった。
12年前に、12人の韓国の牧師たちと一緒に訪問した、当時新築叶ったばかりの釜石新生教会(日キ教団)も訪ねることができた。小さいながらも高い天井を持つこの教会。津波に呑まれた3m付近を境に上部と下部とでは別の様相だ。吹き抜けの美しいステンドグラスの下方は、はげ落ちた一階部分の天井とぶちぬかれた壁。まさに傷だらけの教会である。
見上げたステンドグラスの中央の図柄は、オリーブをくわえたノアの鳩。新しい大地の出現を知らせた、あの鳩が飛んでいた。虹よ、かかれ!
2013年3月10日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-03-05 10:30:18 (1598 ヒット)

                【礼拝へ、そして礼拝から】
信仰生活の中心が、そして教会の業の中心が礼拝であることは言うまでもありません。信仰生活の一部として礼拝があり、教会の諸活動の一つとして礼拝があるのではないのです。礼拝する生活としての信仰生活であり、礼拝する群れとしての教会なのです。
礼拝は、前奏・招詞に始まり、祝祷・後奏をもって終わります。けれども、礼拝者としての生活は、祝祷・後奏から派遣されて始まり、礼拝した者としての労働、勉学、生活を歩んだのち、再び主の日に礼拝式の場に戻ってくるという循環をもっています。
礼拝を示す聖書の言葉はラトレイアといいます。もともと「服従・奉仕」という意味の言葉です。礼拝は、ずばり、神への奉仕なのです。「奉仕」と聞くと、自分には何ができるだろうと考えてしまいますが、礼拝こそが、神が最も喜ばれる奉仕です。そして礼拝は、神の国の先取りでもあります。老若男女、元気な者・そうでない者、喜ぶ者・悲しむ者、社会的立場や民族の違いなどを超えて、神を礼拝することにおいて一つとなる、神の国のイメージなのです。 ●2013年3月3日週報巻頭言


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