【信徒として思うこと】
教会に集う信徒には、健康な人や病気を患っている人、若い人や年老いた人等、色々な人々がいらっしゃいます。
そしてそれぞれ生きてきた人生、物の見方や考え方、価値観の違う方々が集われています。それは正に社会の縮図です。
しかし社会と教会の唯一無二な相違点は、教会に集う一人一人がキリストによって救われ、召し出されたものとして、からだなる教会に「連なる枝」であり、「兄弟姉妹」であるということ。そして、教会に集う信徒は、礼拝からキリストのみ言葉をいただき、強められ支えられて日々の生活を生かされています。
今、私たちの教会は、無牧です。この時こそ、礼拝を守ることを大切にしなければならないと思います。
キリストの体である教会で、ただ主のみを仰ぎ見て、固い信仰の力をいただいて、互いに支え、助け合い、祈りをひとつにして、備えられたこの時を、前に向かって歩んで参りましょう。
●5月5日 週報巻頭言 吐田敏宏
【御国の王イエス様の御先立ち】
欲張った題名をつけました。イエス様は山にまでついて来た群衆と弟子たちに、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」とおっしゃる。心貧しく、悲しみ、柔和な人々の現状は、どう見ても幸いな状態ではない。
それを、幸いだとおっしゃるのは、天に昇り、神の右に座し、神の国の王権を委ねられたイエス様であるからである。このお方から差し込む光に照らされたイエス様の幸いだという判断は、この世的な判断と180度対立する。イエス様の御言葉は、神の国の幸いなのである。私たちの問題は、この御言葉をどうお聞きすべきなのかである。私たちはいつか先のことではなく、今のこととして、お聞きしたいのである。
御国の王イエス・キリストは、この御言葉を聞く「心の貧しい者」が、生まれる前から、既に共にいて下さり、彼らの苦しみなど比較にならない(十字架の)苦しみを、背負って、勝利して、御国へと先立ち給う御方の御言葉として、お聞きすべきなのではないか。「勇気を出せ。私は既に世に勝っている」。
●4月28日 週報巻頭言 松倉治
【安らぎ・喜びの日曜日】
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。(ルカ10:40)」マルタはイエス様に最高のおもてなしをしようと、家事に料理に一生懸命でした。一人では到底手が足りません。
猫の手も借りたい時に、妹マリヤはどこに行ったのでしょう?その時マリヤは家事そっちのけでイエス様の膝下で話に聞き入っていました。「私がこんなに働いているのに、マリヤはサボっている。しかもそれをイエス様が許しておられるっ」マルタの怒りは頂点に達しました。!そして「イエス様、妹を叱って下さい」と叫んだのです。マルタはイエス様への愛から喜んで奉仕を始めました。しかし忙しさの内に奉仕自体が目的化し、喜びを忘れてしまいました。愛の奉仕が律法的な「お仕事」に変わってしまったのです。私たちの奉仕も、いつの間にか「お仕事」になってはいないでしょうか。もし奉仕に疲れを感じているなら、マルタの手を休めてマリヤのように静かに御言葉を拝聴する必要があるのではないでしょうか。主は招いておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)」
●4月21日 週報巻頭言 教会員A
【豊かに実を結ぶ人生】
2013年も新年度を迎えています。この春から、新しい環境で、新しい生活を始められた方も多いことでしょう。ピカピカの一年生がまぶしく見える季節です。入学・進級・就職など希望に胸をふくらませ、充実した人生を求めての門出と言えましょう。一口にクリスチャンと言っても様々です。実を結ぶ生活をしている人と、殆んど実らしい実を結んでいない生活をしている人とがいます。
どうしたら、実を結ぶ生活ができるのかという事について教えているのが今日の聖書箇所(ヨハネ 15:1〜 6)です。イエス様は、私たちの救いを切に願っておられます。私に繋がっていなさいと再三招いておられます。イエス様に繋がり、イエス様の愛に留まってさえいれば、自分が無力であろうと、私たちは主の喜びに満ちた命の働きによって、主の目的のために喜んで生かされる者となり、豊かな実を結ぶ人生を送ことができるのです。教会は4月から新しい歩みを始めました。教会に集う私たちも固く主に繋がって、歩みたいものです。
★2013年4月14日 週報巻頭言 平山公司
【礼拝・捧げる喜び】
4月を迎え、リクルートの姿が眩しく感じる季節です。先週は桜満開のイースターで、枯れ枝に咲く桜の花が、イエス様のよみがえりを象徴しているかのように感じました。十字架のイエス様の死で離散して行った弟子たちは、イースターの朝、復活のイエス様に出会い、再び立ち上がり、世に出て行きました。
「ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け ……。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と書かれているとおり、この時から教会の営みが始まって行きます。宣教、交わり、パン裂き(主の晩餐式)、祈り、そしてバプテスマ式。これは正しく栗ヶ沢教会の礼拝の姿です。
この礼拝を大切にすることで、神様の祝福が与えられます。神を畏れ、喜びの時にも悲しみの時にも互いに愛し合う群れとなっていくならば、主は必ずこの地域のさらに多くの方たちを私たちの仲間に加えてくださいます。
★4月7日週報巻頭言 面川正史