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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-15 16:28:41 (3109 ヒット)

         【ピスガの山頂】申命記34:1−12
 卓越した預言者であり、指導者であったモーセ。彼は人生の完結の時を迎え、ピスガ山の山頂に立ち、イスラエルの民がこれから進んでいく「約束の地」を見渡しています。眼下に広がる平地と、おびただしい数の民とは、まさにアブラハムが聴き、イサク、ヤコブへと受け継がれた夢の成就でした。
 モーセ自身は、その約束の地に入ることを許されませんでしたが、彼はその目で、主の約束の確かさを見たのでした。それは、モーセ自身が、これまでの人生の意味を味わう至福の時であったでしょう。と同時に、彼モーセは、自分自身が帰るべき真の故郷をも見たのだと思います。
 約束を見、神の恩寵を見、歴史を見、未来を見、人生を見、天の故郷を見る。それが、ピスガ山頂からの眺望でした。
 わたしたち一人ひとりの人生にも、やがてピスガの山頂に立たせていただく日が訪れます。十分にいただいた人生の道を思い、と同時に、まだ手に入れていなくても、それを受け継ぐ未来へと夢をつなぎ、帰るべき天の故郷を鮮明に見ることのできる、そんなピスガ山頂の時に向かって、今日も歩んでいるのです。
                   ●10月16日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-07 09:16:44 (1399 ヒット)

            【神の宝物】申命記7:6−11
 宝探し・・・。そう、人生はある意味で宝探しのようなものかもしれません。人生を輝かせる宝物。これがあるから人生は良かったと言える、そんな宝物。美術品や骨董の類ではないことは誰もがわかっています。もっと人生論的なもの。でも、そんな人生の宝物って何でしょう。懸命にひたむきに注いできた仕事? 家族? いやいや、培ってきた自分の信念や人生哲学? 違う違う!教会生活と兄弟姉妹の交わり・・・。「わが宝はなんぞや」確かにこれは人生の重大な問いに違いありません。
 しかしそんな宝探しに悩めるわたしたちに、反対の角度から呼びかけてくれる声があります。「あなたは、わたしの宝の民である」という神の声です。わたしのことを「宝物」と呼んで慈しんでくださる神のまなざしです。それも、わたしに相応の価値があるからではなく、この貧しさを、この愚かさを、承知の上で尊んでくださり、神さまの重大な働きを託してくださる御心があるのです。
 人生の深い主題は、「宝探し」にあるのではなく、「神の宝物とされた喜びに応えること」の中にあるのです。
                   ●10月9日週報巻頭言 吉高叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-05 09:14:05 (1260 ヒット)

           【モーセ、墜ちる】 民数記20:1-13  
 シナイ山の麓で、「金の子牛事件」を経験し、うち砕かれた民であったはずです。それなのに、イスラエルの民はくり返し不平と疑いの誘惑に晒されていきます。神と民の狭間に立ち続けたモーセも、さすがに疲れ果てていました。「誘惑」は、彼の疲れた魂に襲いかかります。モーセの精神が崩れてしまうのです。
 今日の「メリバの水」は、民の不平を描く場面という点では、他の同様の記事と変わりがないように見えます。しかしこの場面では、神がモーセの罪に怒り、その結果としてモーセが約束の地に入れないことを宣言されてしまう箇所なのです。いったい、どこにモーセの罪があったというのでしょうか。
「反逆する者らよ。聞け。この岩からあなたたちのために(わたしが)水を出さねばならないのか。」こう言って、杖を二度、岩に打ちつけるモーセ。このモーセの言葉と行為には、もはや神ではなく自分が民の救い手であり、自分の力を民に誇示しようとする思いが、瞬間的に現れてしまったものでした。怒りと疲れによって傲慢にさらわれてしまう。人間の悲しさと罪深さを物語っています。
                 ●10月2日 週報巻頭言 吉高叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-25 10:28:09 (1357 ヒット)

             「偶像」について
 人間が、自分の目的(たとえば、願望や不安の解消など)のために神をつくり像を刻む、これが偶像崇拝です。  「像を刻む」とは、まさにイメージを彫りつける行為ですが、単に木や石を彫って造ることだけを意味するのでなく、「枠組みを決めてしまうこと」や「形にして、解るようにしてしまうこと」なのです。このようにして彫りつけられ、設置されて誕生する神がいます。人間は、その神のもとを訪れては頭を垂れます。その頭を礼拝行為はたいへん敬虔で信心深い姿に思えますが、根本的には、神の力の範囲・効能・目的を、人間側が限定づけてしまっている、たいへん不遜な姿だと言えます。私たちが、時に注意を払わねばならないことこそ、敬虔を装った傲慢な宗教心のことです。
 このように、神と人間の欲望との関係が逆転現象を起こしてしまうことを、聖書では「罪」と呼んでいます。これが放置されていくとき、「神崇拝」が逆に人間の欲望を達成する装置になってしまい、悲劇の種となります。この御し難い人間の本性をどうすれば良いのか。それが聖書のテーマでもあります。
                 ●9月25日週報巻頭言    吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-10 14:08:03 (1417 ヒット)

            【静まって、主のわざを拝す】
 後ろから迫りくる残虐なエジプト軍。行く手を海に阻まれ、絶体絶命の恐怖におののくイスラエルの民。「出発すべきでなかった!」「奴隷の方がましだ!」「戻りたい!」騒ぎ立つしかないおののき。持って行き場のない苛立ち。押さえられない怒り。それらが恨みの飛礫(つぶて)となって、モーセに襲いかかる。
「静まって、主の御業を見よ!」モーセの杖が天を指し、民が天を仰いだとき、あろうことか、海は割れ、乾いた地が現れ、道ができたのだった。
「静まれ!」これこそが、危機の中で聞くべき言葉、なすべき業であった。
 3.11東日本大震災から6ヶ月目の節目を迎えた。未だに見つからない遺体。思うように進まない復興。収束できない原発。広がり続ける放射能の影響。「早くなんとかして!」「責任者はだれ!」「どうしてくれるんだ!」「どうなってしまうんだ!」 私たちは、いま、狼狽えている。悲しさと、恐ろしさと、怒りと、焦りとで、騒ぎ立っている。
 無理もない。無理もないが、その中で静まろうではないか。神の慰めと、神の御業を求めて、祈ろうではないか。                (出エジプト14章より)
                ●9月11日週報巻頭言 吉高 叶 


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