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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-04-25 14:58:20 (1061 ヒット)

「新しい人生が始まる」
復活信仰とはいのちを持つ信仰です。いざ、ここというときに具体的に力を発揮する信仰です。希望と愛とが泉のように心の底から湧き上ってくる信仰です。キリストの復活を無理に信じようとしても、自分の内側から生ける水が流れ出るようにはなりません。 なぜか? 大切なものが欠けているからです。それは神と和解する体験です。その最初のステップは罪の悔い改めです。自分自身が十字架のキリストの方へ向き直ることです。聖書の言葉を誰かにつきつけて、その人を裁くのではなく、自分自身を吟味するのです。次のステップは罪を赦された体験です。現実の自分と向き合う。都合よく神さまを忘れている自分がいる、御言葉を生活の中で生きることを拒否する自分がいる。この自覚です。自分を問うとき、イエスさまの十字架の愛が、初めて高価な恵みとして迫ってきます。「罪」の自覚が増すほど、神との和解の体験も深まる。福音の逆説(パラドックス)です。こうして不信仰な人程キリスト復活を確信して『新しい人生』を歩み始めるのです。

●4月27日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-04-18 14:30:36 (1200 ヒット)

「取り残されたトマスにも」

イースターを迎えると、こんなつぶやきが聞こえてきます。
「キリストの十字架はわかるが、復活はわからない」「十字架は信じるが、復活は信じない」
キリストの弟子の中にも同じことを言った人がいました。トマスです。彼は物事を理性的に判断する実証的な人でした。彼はわかっていないことをわかったようには言えない。正直な人です。正直であることは大切です。
しかし、それは裏返えせば「頑固」だとも言えます。自分の目で見て、自分の手で触ってみないと「キリストは復活した」と言えない。嘘は言えない。そのトマスも、他の弟子たちより一週間遅れてキリストの復活を体験します。トマスが復活を体験したきっかけは弟子たちの交わりへ戻ることでした。それは礼拝です。そこには復活を疑うトマスを排斥しない仲間がいました。
復活したキリストは素直になれないトマスのかたくなさをものともせず、彼の心に入ります。復活はトマスごときが疑って崩れるようなものではありません。
崩れたのは復活ではなく、「トマスの罪」でした。その後、トマスはキリストの足跡を残しました。

 ●420日週報巻頭言 山田 幸男

 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-04-11 15:46:26 (1424 ヒット)

『イエスと二人の強盗』

きょうから受難週に入ります。この週の金曜の朝、イエスさまは十字架で贖(あがな)いの死を遂()げます。しかし三日の沈黙を経て、日曜日の朝、復活します。 イエスさまが十字架に磔(はりつけ)られたとき、二人の犯罪人がイエスさまと一緒に十字架で処刑されました。この二人の条件はまったく同じです。ところが、一人は変わり(悔い改める自分の罪を告白)、一人は変わらない(悪態をつく自分の罪を自覚しない)。同じ境遇にありながら、なぜ、こうした違いが起きるのでしょうか。 条件は同じでも、まったく違う結果が生じるのは、めずらしいことではありません。同じ親から生まれ、同じ環境で育った子どもたちが、まったく違う人生を歩むという話を耳にします。条件は同じなのに、なぜ、結果が違って来るのでしょう。ある人は幸せに、ある人は不幸になるとしたら、どこが違うのでしょうか。 幸せになる人には共通する特徴があります。自分で選べないことよりも選べることに注目する。自分で変えられる所を見つけて、そこを積極的に変える。イエスさまの方へ向き直った犯罪人は楽園(神の祝福)を約束されました。

4月13日週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-04-05 11:15:20 (1435 ヒット)

『さあ立て、ここから出かけよう』

私たち日本人は「中道精神」を好みます。白黒をはっきり決めるよりも、「灰色の部分」を残して「あいまい」にしておく方が得策と考えます。
政治、経済、宗教その他、日常生活のあらゆる場面に「灰色の部分」が存在します。ところが昨今、その「灰色」が内部告発によって暴(あば)かれ、政治家や音楽家が次々と失脚しています。「灰色(あいまい)」を良しとしたために、結局、自(みずか)ら滅びを招いてしまったのです。
ところで、私たちの信仰の歩みはどうでしょう。信仰生活に「灰色の部分」はないでしょうか。御言葉に従うことを「あいまい」にしておけば、波風は立ちませんが、たいした喜びもありません。いざというときに信仰は何の役にも立たないでしょう。
イエスさまから“我に従え”と招かれたら、私たちは従うか従わないか、YesかNoか、どちらかを決断しなければなりません。
決断が「あいまい」では祝福をつかみそこねてしまいます。「ゲッセマネで祈る」イエスさまに注目しましょう。十字架に向かう直前、イエスさまでさえ、汗と涙を流して、ひたすら祈っています。
立ち上がるために、私たちも、まず祈ることから始めましょう。

●4月6日週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-03-30 20:14:39 (1464 ヒット)

『決断のとき』

12年もの間、病気に苦しめられてきた女性がいました。彼女は群衆にまぎれ込み、
後ろから、イエス様の衣にそっと触りました。するとすぐに出血が止まり、
彼女は自分の病苦が癒やされたことを知りました。普通の奇跡話ならば、
ここでめでたしめでたしで終わるのですが、聖書ではここから本当の奇跡物語が始まります。イエス様はそれに気づかれて、この女性を熱心に探し求められました。
あたかも小羊を探す牧者のように。これに対して彼女は、牧者の呼びかけに応える
小羊のように、イエス様の御前に戻ってきました。呼びかけに応答する決断をして、
真の癒やし、真の救いを得たのです。対照的な態度を取ったのが当時の宗教指導者たる律法学者や祭司です。彼らは、自分たちこそ神様に近い者とのプライドの高さから、
イエス様を受け入れる決断をせず、救いを拒否しました。しかし、本当に重大な決断をされたのは、イエス様御自身です。彼女の決断の前に、彼女の罪、そして私たちの罪を贖うために十字架に架けられる決断をされたのです。このイエス様の御決断に、私たちはどう応答し決断していくのか。私たちの決断如何が問われています。

●3月30日 週報巻頭言 教会員A
 


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