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秋の特別伝道礼拝のご案内

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■主日礼拝  
毎週日曜日 午前10時〜

教会学校
毎週日曜日 午前1115分〜
・幼稚科
・小学科 
・少年少女科  
・青年成人科

祈祷会
毎週水曜日 午前1030分〜
                    午後 730分〜
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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-06-13 20:37:33 (924 ヒット)

            【神の愛と約束に命を委ね】
 かねてからユダヤ教の内部では、復活をめぐる論争がありました。サドカイ派は、復活も霊も天使も否定し、人間の存在は死の際に滅びてしまうと考えました。ファリサイ派は、復活を説いていました。この世での努力・尽力が「あの世」で報われるのだと、未来に罰や報いを持ち越そうとしました。
 一方は、復活を否定することで「今の生」を絶対化する道であり、他方は、「今の生」を未来に延長させることによって「今の生」を絶対化する道です。まったく違うようであって、本質において何も変わらないのです。
 主イエスは、そのどちらも「思い違い」だと言います。神が、測り知ることのできない方であるように、復活の生もまた秘められています。それを、「無い」とか「こうだ」とか人間が決めるならば、どこまでも「思い違い」なのです。実に、自分の命をさえ知り得ない私たちではありませんか。命を与えている神の御心の前に、秘儀を秘儀とし、神の愛と約束にこの命を委ね、復活を信じつつ、生かされている今を精一杯生きることが大切です。   
                      ●週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-06-08 07:24:57 (894 ヒット)

              【恵みと感謝の循環】
 神殿税の徴税係の人物がペトロを問いただします。あなたの先生イエスは神殿税を納めているのか!と。
 神殿税を納めているかどうか。それが信仰の正統性や熱心さを計るリトマス試験紙のように考えている人々が大勢いました。そして多くの庶民は、ローマが課していた重税に加えて、この神殿税を仕方なく支払わねばなりませんでした。ユダヤ社会からはじかれてしまわないためです。
 制度化された宗教体系の中で人間の心が操られ、いつの間にか、まっすぐに神様の恵みと人間の喜びがつながれなくなってしまうことをイエス様は悲しんでおられました。信仰の喜びとは、律法の圧迫によってではなく、解放と感謝によってもたらされるからです。
 私たちを我が子として愛する神の祝福が先ずあって、その恵みの流れの中で私たちも神様を礼拝し、神様に献げ物をしていく循環に与ります。この循環の中を生きる喜びを忘れてしまうとき、「献げ物」は、「税金」や「会費」や「料金」などといった、まったく別のものに化けてしまうのです。
          ●週報巻頭言(テキスト・マタイ福音書17:24-27) 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-06-02 22:11:55 (904 ヒット)

                 【ふくらんでいく天の国】
 マタイ13章には、いくつかの「種の譬え話」が集められています。「譬え話」とは、その全体を通して「一つのこと」に気づかせようとする話法です。主イエスは、生命の真の源としての神さまと、生命を受けて生きる人間との関係性を、これらの譬え話を通して教えてくだっています。それが、種と土の関係であり、酵母と粉の関係です。生命には、神さまという真の核・真の主体があり、人は、それを受けとりながら、自分自身の人生の主体となっていく。この神と人の「原本的な関係」を憶えよと言うのです。
 天の国(神の国)とは、死んだ後の世界ではありません。神の支配のことであり、それはすでに私たちの命の中に吹き込まれていますし、私たちの人生の中で始まり、育っていくものです。と同時に、人間には「自由」が与えられていますから、その神の支配という種を芽吹かせることなく生きることもできます。しかし、もし、神さまと私たちの関係に気づきながら生きるなら、天の国は、豊かにふくらみ、私たちの人生を包み込んでくれるのです。
              ●5月30日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-05-24 18:41:15 (1014 ヒット)

 みんなは「それ」を何といっているか。「彼」のことをどう考えるか。三人称で物事を捉えることを<認識>と呼びます。イエス様のことを、当時の人々は、経験や学問に照らして「彼は○○だ」と評論していました。面白いほどにいろんな認識が並びました。
 けれども、イエス様は弟子たちに向き直って「では、あなた(たち)は、私を何と言うか」と問いかけます。<告白>とは、このように一人称・二人称の関係の中で引き起こされるものです。教会は、神について学ぶ場所ではありません。救いについて考える場所ではありません。交わりについて検討する場所ではありません。それらは、全て三人称の作業です。
 教会は、一人称・二人称の世界を生きています。「イエス様、あなたは、わたしの救い主です。」「わたしたちは、あなたこそ神と信じ、礼拝します。」そして「私たちは、交わります。」
 イエス様を「あなた」として向き合う「わたし」や「わたしたち」が生きているところに、教会の何とも不思議なパワーと一致が生み出されます。
                ●5月23日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-05-24 18:40:03 (952 ヒット)

 本日の聖書テキスト(マタイ8:18-27)には「嵐を静めるイエス」の事件が含まれています。いわゆる奇跡物語です。けれども18節からの文脈全体からは別のテーマが響いてきます。
 イエスに従う道においては、/諭垢らの拒絶を受けること ⊃閥瓩平諭垢箸侶菠未鯒られること M鬚里茲Δ丙て颪冒遇すること、が待ち受けているということです。つまり、主イエスと共にあれば「嵐が起こらない」のではなく「嵐に出会うだろう」と、私たちの期待とは逆のことを、このテキストは言っています。
 ただし、さらに重要なことですが、その嵐の中でこそ、人は真にキリスト(救い主)と出会うのだというのです。
 「人はどこで神を見いだすのか」。それは人間の望む平穏な場面でではなく、順調な流れの中ででもない。まさに危機と揺さぶりの中で、人は、神を、救い主を発見するのです。しかも、「向こう岸へ渡ろう」という主の招きに従う中で改めて己(おのれ)が揺さぶられ、その揺さぶりの中で、ほんとうにキリストと出会うのです。
                       ●5月16日週報巻頭言 吉高 叶


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