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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-07 19:09:30 (1056 ヒット)

✣ ダビデ王の背信 ✣

    イスラエルの王となったダビデは、部下の妻と不適切な関係を持ちます。彼女の妊娠を知ると、証拠隠滅を謀り、彼女の夫を戦争の最前線へ派遣して戦死させました。
    この行為に神さまは怒ります。預言者が“神の言葉”をダビデに告げました。
    「貧しい人が大切にしていた羊を、金持ちが取り上げて食べてしまった。王様、あなたは、これをどう思いますか?」
    ダビデ王は怒りました。
    「私は無慈悲を赦さない。死刑にせよ!」
    預言者はズバリ指摘します。
    「あなたがその人です。」
    この指摘でダビデは自分の罪に気づき、涙を流して悔い改めます(詩編51参照)。
    この話をすると、必ず反論されます。「牧師さん、悔い改めれば何をしても赦されるとは、都合の良い話ですね。」 しかし、私は「そうです。赦されます。」と答えます。駆け出し牧師の頃は、言い切る自信はなかったのですが、教誨師の働きを通して確信しました。刑務所や少年院で受刑者が本気で悔い改めると、人が変わります。むしろ、普通の人は罪意識が希薄なためか、悔い改めが中途半端。悔い改めたつもりになるが何も変わらない。だから「都合の良い話」で終わる。あなたへの問です。

●7月10日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-30 19:39:43 (918 ヒット)

✣ 神との絆 ✣

    私たちが「ダビデの生涯」から学びたいことの一つは、“先立つ神の恵み”です。神を信じて従う人に、神は必ず祝福を備えています。もう一つは“罪人と聖なる神との絆”です。罪を抱える人間は、どのように神から罪を赦され、どんなふうに神と強く結びつくのか、そのプロセスです。
    世の中には聖書を読まなくても、信仰を持たなくても、稀(まれ)に素晴らしい生き方をしている人もいます。そういう人から見れば、罪丸出しの「ダビデの生涯」など、とても受け入れられないかもしれません。
    ところが、そんなダビデが、神に選ばれ、神が愛してやまない人物であると、旧約聖書サムエル記は一貫して語っています。
    聖書を読んでいても、信仰があっても、立派というには程遠い者にとって、「ダビデの生涯」は大きな慰めであり、希望です。
    ダビデの生き方に、“神との絆”を深めるヒントがあります。

1) 雑音に振り回されない
    …どんな時も、神の導きを求め、神の声(Go! Stop! Wait!)に必ず従う。

2) 他者を責めない
    …自分の罪を悔い改めて、自分が日々新しくなるように祈る。

3) 礼拝を忘れない
    …嬉しい時も、悲しい時も、神を賛美して生活する。

●7月3日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-23 19:56:57 (1018 ヒット)

✣ 神の時を待つ ✣

    「神の計画」が実現するまでには時間が必要です。私たちは、神さまが為さることだから、すぐに実現すると考えますが、そうではありません。神さまは、ご自身に背く者を敢えて選び、声をかけ、悔い改めへ導きます。そして、その人を罪の縄目から解放し、新生させ、神の子どもとして養い育て、手間ひまかけて「神の計画」を実現します。「神の計画」が、いつ、どのように実現するかは、神ご自身が定めています。
    そこで、神の子どもとされた者にとって大切なのは、自分勝手に先走らないこと。謙虚な心で「神の時」を待つのです。待つと言っても、何もしないで、ただノンビリしていればよいのではありません。神さまから示された「小さな御心(神の導き)」に忠実であること、面倒くさいことや、馬鹿馬鹿しいと感じるようなことにも、神さまに仕えるように、真剣に取り組むのです。
    神さまは、「小さな御心」を見落とす僕(しもべ)に、「重大な仕事」を任せません。
    ダビデは、自分を殺そうとするサウル王に対して、《わたしの主君》《主が油を注がれた方である》から殺してはならないと語りました。ダビデはこの時、置かれた状況にも、人の声にも、自分の感情にも振り回されることなく、ただ神さまを一心に見つめています。これこそが、神の子とされた者の「神の時」を待つ姿です。

 ●6月26日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-16 18:32:08 (978 ヒット)

✣ ザアカイ―自由にされた者 ✣

    「『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て喜んでイエスを迎えた」(ルカ19:5〜6)。一見とても不思議な物語である。ザアカイは、この時までイエスに対して、一言たりとも言葉も発していない。しかし、初めて聞くイエス様からの声に対して、自分自身を全く明け渡してしまった。「ザアカイ!」との呼びかけが、彼の心の一番深い所にストライクの直球で命中したのだろう。
    ザアカイは決して特別な人間ではない。背が低いと言う劣等感からの反動なのか、努力もし、権力も富も手に入れたが、それで幸福になれたのではない。孤独であっただろう。恐らく権力や富は、自分で自分を支えなければならない「恐れ」の裏返しであった。しかし、ただイエスの招きが、彼をそんな「木の上」から降したのである。
    私も木に上り、ため息をつきながら、傍観的に「救いなどこの世にあるものか」とどこかで思っていたのだと思う。しかし、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と、この私目がけて救い主イエスの方から私の方に来て下さったのである。「あなたもアブラハムの子(神の祝福の子)だ」と宣言下さるこの主が、私に、神のものとされて生きる自由と幸いを与えて下さった。

●6月19日 週報巻頭言  神学生  丸山 勉(大泉バプテスト教会)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-10 18:51:12 (929 ヒット)

✣ 賛美と祈り〜福音の道を歩こう ✣

    古代社会では農作物を収穫したとき、喜びの「祭儀」を行いました。また、愛する人の死に直面したときは「葬儀」を行い、人々は悲しみを天に向けて祈りました。
    もし理性で宗教を定義するなら、「宗教とはある特定の人々に共通する思想や感情から発生したところの教義に促される行動の形態である」と言えるでしょうか。どんな宗教にも、それを選び取る人々の“信仰心”や“祈りの対象”が存在します。そして、“芸術(音楽や美術)”も、古来、宗教と深い関係があり、密接に結びついているのは不思議な現実です。現代人によく知られている“芸術作品”の多くは、実際、作者の“信仰心”を反映しています。それを理解出来れば音楽や美術作品の“真髄”に触れることが出来るでしょう。
    例えば作曲家バッハは、数々のカンタータ(声楽曲)を残しました。それはキリスト者としてのバッハの“信仰告白”です。キリストを信じる幸いを世に伝えると共に、バッハのキリストへの思いが表現されています。
    キリスト教の礼拝では“聖書(御言葉)・祈り・讃美歌”が一体となっています。人々は礼拝に参加することによって“キリストに触れる体験”をします。キリストに触れた人々は、賛美と祈りにより、あらゆる違いを超えて一つとされ、聖書が約束する“天国”を見える形であらわします。礼拝は、堅苦しい宗教の儀式ではなく、人間が持つ霊性と理性が調和する至福のときなのです。

●6月12日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


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