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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-13 20:30:01 (740 ヒット)

✣ 神と人、人と神、人と人 ✣

    創世記1章が伝えた「天地創造(原初史)」は、2章4節から違う視点で再び語られます。
    創世記1章では、第一の日、第二の日…として、神の創造のわざを順序に従って伝えました。しかし、2章では、第1章の27節に焦点を合わせ、神の創造の中心である人に注目します。人の創造を詳しく語ります。
    【主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった】(2:7)。
    人(アダム)は、土(アダマ)の塵から造られた。聖書の人間理解です。ここに聖書の民(選民イスラエル)への大切なメッセージがあります。

1)人の肉体は、既に存在した「土」から造られた。一方、人の霊は神が直接吹き入れた。人だけが、神の霊を吹き入れられた。

2)人の肉体は大地を母とした。人は「土」を必要とする。「土」に親しむ生活がないとき(自然から隔離された状態)、人は自然への郷愁にかられる。

3)人は、【土の塵】から造られたに過ぎない。だから謙遜を忘れてはならない。聖書の民は傲慢になるな、高ぶるな、と警告する。

    天地創造の主であり、すべてのいのちの源である神は、生きる者となった人(アダム)を、【エデンの園(「優美な、楽しい、喜ばしい」の意味)】に置き守らせました。

●7月16日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-06 21:08:19 (809 ヒット)

✣ 安息の意味 ✣

    創世記2章は、天地万物の創造を完成した神が、第七の日に【安息】したと伝えています(2:1-3)。旧約聖書を正典とするユダヤ教では金曜日夕方から土曜日夕方まで(実質的には土曜日)を【安息日/シャバット(あんそくび)】として、今も守り続けています。
    旧約聖書に記されたイスラエルの民(ユダヤの民)の歴史をよく読んでみると、民が【安息日】を守ったというよりも、【安息日】が民を守った物語が多くあり、はっとさせられます。
    七日を一週間の単位とする習慣は、太陰暦(月の満ち欠けによる時間概念)を既に採用していたメソポタミア文明が、古代ユダヤ人の生活や伝承に影響を与えたという説もあります。
    第七の日は、神が仕事を休んだように、人も仕事を休む。あらゆる仕事を一時やめる。こうして、人は、神が創造した世界の中で、生かされていることを感謝する。そのために“時間”を取り分ける。聖書独自の世界観です。ここに【安息】の意味があります。
    新約聖書では初代教会時代に【キリスト復活】を記念する「週の最初の日(日曜日)」を【主の日/主日】(黙示録1:10)と呼び、この日に礼拝を行うようになりました。【主の日】は人が神のもとへ立ち帰る日。人が神と共に、隣人と共に、新しい週の歩みを始める日。【安息】が実現される大切な日です。

●7月9日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-29 19:47:12 (740 ヒット)

✣ 天地創造 ✣

    旧約聖書・創世記は50章もある長編です。内容は大きく二つに分かれます。「創世神話(1-11章:天地創造、人の誕生と堕罪、ノアの物語、バベルの塔)」と、「族長物語(12-50章:イスラエル民族の起源)」です。
    「創世神話」は非科学的で信じる価値は無い、という人もいます。私もかつてはそうでした。「創世神話」だけでなく、聖書そのものをクダラナイと決めつけていました。
    そんな私も、あるとき、自分は知ったかぶりをするだけで、実際には何も分かっていないと気づき、聖書をきちんと読んでみたくなり、近所の教会へ行き始めました。牧師先生から“聖書の読み方”を教えていただくと、書いてあることの意味が徐々に分かるようになりました。「創世神話」は一見単純で馬鹿げた話のように思えますが、奥が深く、読む度に新しい発見があるこれには驚きました。今も、新しい発見があり感動しています。
    【初めに、神は天地を創造された…】(創世記1:1)。このくだりは、読者を突然、神の前にひきずり出します。そして、“創造主と被造物”という世界観を前提とした話を押しつけて来る。こんな世界観があるの?と思いながら「創世神話」を読み進むと、それまで当前と思っていた価値観とは違う“豊かさ、慰め、希望”が迫って来るのです。

●7月2日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-22 19:47:52 (902 ヒット)

「放蕩息子」のたとえ

    主イエスさまは、ご自身が十字架刑に向かう定めにあることを想われている時、天の父である神さまが、どんなに失われた人を探し求め、愛のふところへ招きたいかを、どうにかして知らせたいとの思いを持たれ、この「放蕩息子」のたとえを語られました。

★ある人に二人の息子がいました。弟息子は早々と財産の分け前をもらい、放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たしてしまいます。そしてとうとう父のところに戻らざるを得なくなってしまいました。その時父は、弟息子を、仕方なしに受け入れるどころか、憐れに思い、一番良い服を着せ肥えた子牛を食べさせて大歓迎しました。一方、兄息子はその様子を見て不満がつのります。自分は何年も父に仕え、そむいたことはないのに子ヤギ一匹ももらえなかったと。その兄息子に対して父は、「兄息子よ、お前はいつも一緒にいるが、弟息子はいなくなったのに見つかったのだ。喜ぶのは当たり前だ。」となだめます。

◆私たちは、弟息子のように、自由奔放な生き方をしていようとも、兄息子のように、真面目にソツなく生きていようとも、神さまは変わることのない愛をもって、私たち一人一人を自分の子どもであるがゆえに、神の元に帰ることを待っておられます。 

●6月25日 神学校週間礼拝 週報巻頭言  神学生  中根 淨(花小金井キリスト教会)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-15 20:34:41 (813 ヒット)

✣ わたしたちは主のもの ✣

    榎本保郎著『新約聖書一日一章(ローマ人への手紙 P.281)』の一節が心に響きました。
    『私が同志社に行っているとき、御所の庭で宗教部の集会が開かれた…20〜30名集まり…先生を迎えて話を聞いた。私は信仰を持っていない友人を一人連れていった…腰をおろして話を聞くことになったとき…先生は聖書と讃美歌を置いて、その上に腰をおろした。草のしみがつくからと思ってひょいとしたのである。そのとたん、私が連れていった友人は帰ってしまった。
    聖書は一つの本であり…内容が大事…と言ってしまえばそれまでだが、人に対する配慮がなさすぎたと思った。人がつまずこうがどうしようが、わが道を行くというのではなく、信仰の弱い人のことを考えて、つまずかないようにしていくのが愛である。【キリストはその兄弟のために死んでくださったのです】(ロマ14:15新共同訳)。この言葉が、私の心が本当に開かれる一つの鍵となった。』
    パウロはローマ教会にくすぶる問題に切り込みます。それは初代教会が抱える共通の悩みでした。キリストは違う意見の「あの人」のためにも十字架で死なれた。【キリストの愛がわたしたちを駆り立てている】(2コリント5:14)。だから、私たちは“光の子”として、互いに思いやりの心を持とう、というのです。

●6月18日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


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