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ユダヤの最大の祭りである「過越しの祭り」を祝うために、イエスがエルサレムに上った際に、礼拝にやって来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいました。彼らは、ベトサイダ出身であったフィリポのもとに来て、「イエスにお目にかかりたいのです」と申し出ます。彼らは、ギリシャの神々にひざまずくことなく、イスラエルの唯一の神を礼拝しようとエルサレムにやっ てきたのです。
これを聞いて、イエスは言われます「人の子が栄光を受けるときが来た」と。直前の11章で、ラザロを復活させるという奇跡をおこなったために、ユダヤ人は民衆がイエスを信じるようになることを怖れま した。そこで、彼らはイエスを殺そうとたくらんだと書かれています。
このような動きを見て、イエスは自らの十字架の死を予見します。それは、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」と言われる出来事だったのです。それは、どういうことなのか。小説の題名にも引用されるこの「一粒の麦」をめぐって、この朝は御言葉(みことば)から聞いてゆきます。
●2月25日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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1957年10月、柏市光ヶ丘団地の一角で始められた子どもの集会が、教派を超えて地域のクリスチャンたちに広がり、団地の集会所で毎週行われる日曜学校へと成長しました。さらに、同団地の蓑原善和夫妻宅にて始められていた家庭集会が、1967年1月に日本バプテスト連盟市川教会「光ヶ丘伝道所」として承認され、同年12月より富平達郎氏の庭のプレハブで礼拝がささげられるようになりました。(『伝道開始40年の歩み』より)
1969年2月9日、初代牧師、鍛治田武牧師の牧師就任式と派遣式が市川教会で行われます。鍛治田牧師が、光ヶ丘団地で第1回の礼拝をささげたのは、翌主日2月16日のことでありました。この2月16日を伝道開始記念日として覚える礼拝が、本日の「伝道開始記念礼拝」です。
使徒パウロは、コリントの町でテントづくりの仕事をしながら生活の糧を得て、福音を宣べ伝えました。福音を一度も聞いたことのないギリシャ人に、十字架の言葉を語ったのです。そのパウロの宣教にかける思いを、コリントの信徒への手紙から共に聞きます。
●2月18日 伝道開始記念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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今週の水曜日、2月14日から教会の暦でレント(受難節)に入ります。レントは、イエス・キリストの復活までの40日(その間の6回の日曜日は除く)の間、十字架への道を歩まれたイエス・キリストの苦難を覚えて、慎み深く過ごす期間として主に西方教会において、覚えられてきました。このレントの期間を大切に過ごすことによって、復活祭の喜びがいっそう深く大きくなったのです。
これにともなって、本日はルカによる福音書20章より、「ぶどう園の農夫のたとえ」という見出しが付いている箇所から、御言葉(みことば)に聞きます。イエスは、この譬えを受難週の最中(さなか)に、エルサレムで語りました。ここでは、「農夫」、「主人」、「跡取り息子」といった人物が登場します。これらの人は、だれを指しているのか。また、イエスはこの譬えによって、何を訴えようとしているのか。そのことを共に分かち合います。エルサレムの人々は「そんなことがあってはなりません」と言いました。しかし、実際はそうなりませんでした。そのことを覚えつつ、レントのメッセージを分かち合います。
●2月11日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日のヨハネ福音書4章では、主イエスがユダヤを去ってガリラヤに戻る途中、サマリヤ地方を通過した時の出来事が記されています。イエスは、昼の12時ごろ旅の疲れを覚え、シカルというサマリヤの町の井戸のそばに座っておられました。そこに、一人の女が水を汲みにやってきたというのです。
ユダヤでは、水汲みは女性の仕事でしたが、通常それは日が傾く夕方におこなわれることになっていました。彼女は、他の女性たちが集まってくるその時間帯を避け、わざわざ日中、暑い盛りの時間帯に水を汲みにやってきたのです。彼女は、問題を抱えていた女性でした。
そこで、イエスとこの女との対話が始まります。「水を飲ませてください」という求めから始まり、しばらくの間、やりとりを行った結果、彼女はイエスのことを預言者だと認めるのです。ここで問題とな った「生ける命の水」とは何のことか、また、彼女がイエスをメシアだと告白するに至った理由は何だったのか。本日はそこに焦点を当てて、御言葉(みことば)から聞いてゆきます。
●2月4日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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新約聖書によると、教会は「キリストの体」であると言われます(コリントの信徒への手紙一 12章ほか)。教会とは、単なる建物のことではなく、「からだ」として機能する生きた運動体なのです。それゆえ、教会を構成する一人一人の会員は、この運動体の一部(以前の口語訳でいう「肢体」)であり、いわば教会そのものであります。
本日のエフェソの信徒への手紙で、使徒パウロはこの「キリストの体」の成長を説明して次のように言います。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)
本日は、この箇所を手掛かりにして「教会とは何か」を問いながら、同時に、一人一人が主にあって成長することの大切さを分かち合います。2024年度が数ヵ月後に始まりますが、この時期に、共にキリスト の体を立て上げることの意味を、考えてみたいと思います。
●1月28日 週報巻頭言 牧師 木村 一充


