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ヨハネ福音書では、冒頭の1章から記者ヨハネが伝えようとするメッセージを、きわめて象徴的な言語を使って言い表すという手法が取られています。たとえば、1章には「光」という言葉が出てきます。「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」(1章9節;口語訳)とある通りですが、この光とはイエス・キリストのことを指します。象徴として比喩的に語られていますから、信仰者以外の読者には分かりづらい言葉になってきます。本日の箇所(8章)に記される「真理」も、この象徴言語の一つです。この言葉はこのあとの18章のイエスの裁判においても問題となります。ローマの総督ピラトが、イエスを裁判にかけて訊問するとき「真理とは何か」とイエスに問いかけます。この真理とは、イエスが語ろうとした神の国の福音を指すと考えることができます。
福音に生きる人は、それまで人々を縛っていた諸々の掟(ユダヤの律法)から自由にされ、信仰に生きる喜びの中へと招き入れられます。神を信じるとは、この自由を享受するということです。そのメッセージを本日の箇所から聞いていきます。
●3月26日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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主イエスが弟子たちと最後にとった食事は、ユダヤの最大の祭りである過越祭を祝う食事でした。それは、かつてイスラエルの民がモーセに率いられ、奴隷の地であったエジプトから逃れ、約束の地であるカナンに帰還した出エジプトの出来事を記念し、これを祝う喜びの食事でありました。
しかし、その最後の食事の席で、主イエスは弟子たちのうちの一人が自分を裏切ろうとしていると予告します。この場面を描くマルコ福音書の並行記事を読むと、弟子たちは「まさか自分のことでは」と代わる代わる言い始めたとあります。弟子たちの多くが、心の片隅に主を裏切りかねない不確かな自分、主に従い切れない不信仰な自分の現実の姿を認識していたということでしょう。
この時ペトロは自分だけは違うと思っていたようです。「主よ、ご一緒になら…死んでもよいと覚悟しております」そう言って大見栄を切ったペトロも、後に「イエスを知らない」と三度も繰り返して言うことになるのです。そのようなペトロに、主イエスは、裏切りの予告の言葉を語られます。この場面から、本日のメッセージを聞き取ります。
●3月19日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日のテキストにある旧約の預言者ホセアは、北イスラエルの王ヤラベアム2世の治世(BC786〜746)の末期に預言活動を始め、北王国が滅亡する紀元前722年までのおよそ四半世紀にわたって預言活動をしました。
ホセア書は、全体で14章からなる比較的小さな預言書ですが、その内容は大きく二つに分けることができます。前半の部分は1〜3章で、それらはホセアの預言をまとめたものです。後半部分は4〜14章で、そこには彼の語った預言がほぼ年代順に配列されているものと見られています。
彼の妻となったゴメルは姦淫の女でした。神殿娼婦だったのではないかという見方もあります。しかし、神はホセアにそのゴメルを妻とするように命じられました。こうして、彼女と結婚したホセアには、やがて男、女、男の3人の子どもが与えられます。ところが、主なる神は、生まれてきた子どもたちに、イスラエルの悲惨な未来を予告するかのような名を付けるように命じたのでした。
本日は、このホセア書を与えられた聖書箇所として、そこから響く神の言葉に耳を傾けます。
●3月12日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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コリントの町は、パウロが第2回伝道旅行の際に、アテネの次に訪問した都市です。実は、アテネでのパウロの宣教は大失敗に終わりました。とくに死者の復活という キリスト教信仰の核心とも言うべき教理を 語ろうとしたときに「その問題については、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言われるなど、適当にあしらわれてしまう有様でした。
このアテネ伝道の失敗が、パウロのコリントでの福音宣教の姿勢を大きく変えたものと思われます。パウロは、第一コリント書2章で「わたしは、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と述べています。哲学ではない、十字架につけられた方への信仰を語り伝えたのです。このパウロを、生活の面で支えた信徒がプリスキラとアキラ夫妻でした。パウロはこの夫妻の家に住み込んで、自給伝道を行ったのです。
「恐れるな、語り続けよ」というみ言葉が本日の聖書箇所にあります。新年度を迎えるに当たり、このみ言葉に支えられつつ、キリストの業に励みたいと思います。
●3月5日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
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本日の聖書箇所である詩編34編は、全部で23節から成り立っていますが、詳しく見ると、2節から23節までヘブライ語のアルファベットである22文字がそれぞれの文章の文頭に用いられていて、わが国でいう「いろは歌」とも言うべき構成になっています。その点で、この詩編はかなり考え抜いて書かれた詩、文学的な技巧が施された詩であると言えるでしょう。
詩人は自分自身のことを「貧しい人」ととらえ、それは身分においてもそうであったが、それ以上に、魂において貧しく低い人であったことが明らかにされています(3、7節)。その上で、7、8節にあるように「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いは…主を畏れる人を守り助けてくださった」と、告白するのです。
信仰を持てば、人は困難な試練から、また災難から免れることができるというようなものではありません。たとえ困難や試練に遭おうとも、主が必ずそこから助け出してくださる、と詩人は言うのです。主への確かな信頼と感謝、そのことを本日の聖書から学びたいと思います。
●2月26日 週報巻頭言 牧師 木村 一充