★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
主イエスが語られたたとえ話の中で、死んだ後の世界が語られているものが一つあります。それが本日の「金持ちとラザロ」の物語です。ラザロは、全身にできものができていた貧しい病人でした。施しによって生きるほかないこの人は、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの庭先に横たわり、その食卓から落ちる残飯で腹を満たし、命をつなぐ日々を過ごしていました。金持ちも、ラザロを追い払うことはしませんでした。ユダヤ人の家庭に生きてきた者として、律法が説く貧しい者への施しの精神を持っていたのです。
やがて、ラザロもこの金持ちも死にました。金持ちの方は「死んで葬られた」とあることから、丁重な葬儀がおこなわれたことを示しています。ラザロが死んだ時は、葬儀さえなかったのです。
ところが、天に上げられたあとの二人の立場は逆転します。ラザロは、父アブラハムの胸元で安らいでいました。一方、金持ちは炎の中で、もだえ苦しんでいたというのです。本日の物語は何を伝えようとしているのか、そのことを御言葉(みことば)を通して共に考えます。
●6月9日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
この朝は、イエスが語られた「神の国のたとえ」を共に分かち合います。主イエスは、神の国を語る際に、地中に蒔かれた種が、蒔いた農夫の働きや努力とは関係なく、「ひとりでに」実を結ぶということを最初の例として挙げながら、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」といいます。それは、大地がもたらす「豊かな恵み」の結果であり、決して農夫個人の功績によるものではありません。
さらに続けて、イエスは「からし種のたとえ」を語られます。神の国はからし種のようなものであると言われるのです。この「からし種」は「黒辛子」と呼ばれる地中海、西アジア地方を主産地とする香辛料で、マスタードの原料になるものです。その種は、直径が1ミリにも満たないもので、イスラエルの野菜の中で、種としてはもっとも小さいものでした。ところが、それが地中に蒔かれて成長すると、何とその葉の陰に、鳥が巣を張るほどの大きさになると言うのです。本日は、この二つのたとえを通して、神の国とはどういうものかを共に分かちあいます。
●6月2日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
この朝与えられた聖書箇所であるマタイによる福音書6章は、5章から始まる山上の説教のちょうど真ん中に位置していて、「空の鳥、野の花を見よ」と主イエスが語られたところです。
「空の鳥」と聞くと、私たちは通常ヒバリや山鳩のような鳥を想像しますが、並行記事のルカによる福音書12章をみると「烏(からす)」となっています。この鳥は旧約聖書では汚れた鳥とされ、食べてはならないとされていました(レビ11:15)。
また「野の花」も他の翻訳にあるような「百合の花」などではなく、アザミのようなどこにでも見られる雑草のことを指していたと考えられています。
だとすると、主イエスはここでロマンチックな感傷のもとに、日常生活の忙しさからいったん離れ、広々とした空を飛びまわる鳥や草原で美しく可憐に咲く花に、しばしの間目を注ぎなさいと語られたわけではないことになります。「空の鳥、野の花を見よ」という主のお言葉の真意がどこにあったのか。そこに注意しながら、主イエスが語られた神の国のメッセージに耳を傾けたいと思います。
●5月26日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日の礼拝は、ペンテコステ賛美礼拝としてささげます。ペンテコステとは、ギリシャ語で「50日目」を意味する言葉で、イエス・キリストの復活の日から50日目に、エルサレムで祈っていた弟子たちの上に天から聖霊が降ったことを記念して祝う教会の祝祭日です。旧約の時代には「七週の祭り」として祝われ、新麦の初穂を主にささげました(レビ記23:16参照)。
今年は、当教会が小金原の地で伝道を開始してから55年、また教会組織を経て日本バプテスト連盟に加盟してちょうど50年となる節目の年です(週報一面右上をご覧ください)。このことを覚え、50周年記念の一環として、本日ペンテコステ賛美礼拝をささげます。
聖霊とは、復活のキリストから注がれる神の息とも言われる風のようなものであり、私たちの信仰を強め、それによって教会を建てあげてゆく神の力です。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と告白することができないと聖書にあります。本日の聖霊降臨の出来事を喜び、50年の歩みを感謝しつつ、主をほめたたえる礼拝をささげます。
●5月19日 ペンテコステ賛美礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日の聖書であるローマの信徒への手紙は、1章から11章でキリスト教の教義に関する内容が記され、12章から15章はキリスト者の日常生活に対するパウロの勧告が書き記されています。
12章の1節に「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」とありますが、「こういうわけで」とは、神の慈しみと憐れみが「罪人の義認」によって、すべての人に無代価で(=ただで)与えられているという、8章までのパウロの言葉を受けていると考えられます。私たちが、いまだ罪人だったとき、神が無条件でそれを赦し、キリストを私たちのために死なせることで、私たちへの愛を示されたというのです。
この神の人間に対する愛のわざ(=罪人の赦し)を基盤として、人間同士の関係も規定されていきます。すなわち、隣人愛の実践が、本日の12章9節以下で語られるのです。キリスト者にとっての生活は、その全部が「神への奉仕」であると考えることができます。本日は、このローマ書の御言葉(みことば)に耳を傾けます。
●5月12日 週報巻頭言 牧師 木村 一充


