【旅路の助け】
テキスト 詩編121篇
「目をあげて、わたしは山々を仰ぐ」。人生は旅である。旅人は、これから進みゆく山々を見渡し、果たしてそこに何が待ち受けているかを想い、不安と恐れで足がすくむ。「あぁ、私の助けはどこから来るのか」。これはまさに人生の問いである。
人生の助けはどこから来るのだろう。資本主義からか、共産主義からか。政府からか、会社からか、弁護士からか、福祉制度からか。同僚からか、友人からか。それらの助けには、必ず条件と打算があり、時には裏切りや罠がある。
人生の真の助けは、天地とわたしの生命を造られた主のもとから来る。真の助けとは、戒めと愛と赦しとが一体となったもので、それはまさに、私の生命そのものに関わりと責任をもってくださる主なる神のまなざしの中から出てくる。
そして、主のまなざしは、まどろむことがない。私たちが、もうそれ以上できない時に、主は働かれる。もうそれ以上立っていられない時に、主が立ち上がられる。もう横たわるしかない時に、主が起きあがってくださる。旅路に必要なものは、この助けへの信頼である。
●9月19日 週報巻頭言 吉高 叶
【神とわたしと兄弟姉妹】
聖書テキスト ヨハネの手紙一 2:7−11
今日のテキストには、古い掟と新しい掟ということばが出てきます。このどちらも「愛」のことです。もともと神様の創造の根源にあったエネルギーは「愛」です。命は、愛によって創られ、愛のために創られました。神を愛し、被造物が共に愛し合うことが神の創造の目的でした。これがもともとからの命の掟です。
しかし、人間は、この「愛」を自己の欲望の成就(自己愛)に集中させてしまうのです。神と隣人から離れた「愛」は、妬みを生み、恨みを生み、憎しみを生み、結局、人間を暗闇の中に閉じ込めてしまいます。神から切り離された自己愛は、平安を見いだすことができず、苦悩の根となるのです。
キリストは、創造の神からの決定的な愛のアプローチとしてこの世に届けられました。神から絶対的に愛されていること。たとえ神を愛しきれなくても、神は完全に私たちを愛してくださること。その印がキリストです。このキリストの愛と赦しと伴いを受け止めるとき、安心して、あるがままの自分を愛し、同時に、自分だけでなく他者を愛して生きていくことへと開かれていくのです。
●9月12日 週報巻頭言 吉高 叶
【つながり、実を結ぶ】
強い風の吹いた翌朝は、教会の庭にけやきの枝が何本も落ちています。枝から枝分かれした細い枝です。枝には、木の幹から直接張り出した枝と、その枝から伸びた枝とがあるのです。
「傷に触れること、汚れたところに触ること、自分の傷を見せること」。これがイエス様の人々への関わりです。そして「あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。ですから、私たちもまた互いに「よく見て、手で触れ合い、つながり合って」いきたいと願うのです。
けれども、やはり、人間が人間につながり、人間が人間を支えることは、並大抵のことではありません。そもそも、ほんとうに痛い傷を見せることができるでしょうか。それに触れることができるでしょうか。私たちは、互いにつながり、互いに交わることの嬉しさや大切さを思いつつ、他方で人間の「つながる力」の限界にも迫られてしまうのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。」一人ひとりの枝が、主イエスにつながりるとき、一本の木としての私たちの生命は実を結ぶのです。 9/5週報巻頭言 ●吉高 叶
【よく見て、手で触れる交わり】
「信仰」はどうしても観念的になっていきます。また「信仰」はどうしても個人的になっていきます。「自分の、心の問題」という風に、わたし固有の感じ方や生き方に還元されてしまいがちです。けれども、その「わたし」の感じ方や信じ方は、いつも風に吹かれるように相対化されているべきです。「わたしのためのキリスト」ではなく、「キリストの(働きの)ためのわたし」という風に、自分を見つめ直すときに、「わたし」が相対化され、キリストに生きるための隣人性や共同性が、心に生まれてくるのです。
教会とは、キリストによって、「わたし」から自由にされながら、キリストのために一緒に生きようとし、キリストの名のもとに交わりを為そうとする共同体なのです。
初代教会でも、世代が進むと、次第に信仰が観念的になり、個人的になりました。自分の霊的な高揚や深まりが信仰の目的になり、喜びになりかけていました。
「キリストの福音は、交わることと愛し合うことの中にのみ光がある」。ヨハネは、あくまでも「交わり」に生きるようにと、仲間たちに呼びかけました。
8月29日週報巻頭言 吉高 叶
【神に向かってのみ、魂は静か】
ダビデは崖っぷちに立っています。愛臣たちの裏切り、謀反の企て、暗殺の忍び寄り、公然とした悪口、対抗勢力の蜂起。王としての権威もうわべのこととなり、権力も衰退しています。
この危機の中で、ダビデは、真に向き合うべきものと向き合っています。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。」詩62:6
艱難・危難に遭遇して、人は突如として自分自身に立たされてしまいます。それまで、周囲との利害や関係の中で右往左往していたところから、丸裸の自分に、立たされてしまいます。現実の自分を苛むもう一人の自己。現実の自分を攻撃する他者。内から外から突き上げられて、人間は孤独を味わい、深く絶望してしまいます。しかし、その時こそ、人の子らの空しい地平からではなく、それを越えた所から来る助けと結びつくことがを見いだす時を迎えています。
ダビデは、権力闘争の果てに真の守りの岩なる神と出会い、「民よ、どのような時にも神に信頼せよ」との、王の言葉の核心を得たのでした。
●8月22日週報巻頭言 吉高 叶


