神さまの目線
駅のホームに、手をつないだ母親と女の子が立っていました。女の子は時おり何かを指さして母親に語りかけます。そのたびに母親はしゃがみ込んで、女の子の顔の横に顔を並べ、指さす方を見て笑って話しかけます。微笑ましい光景でした。女の子の目には何が見えているのかしら、と、つい私までもがしゃがみたくなりました。
目線を合わせなければ、その人が何を見ているのかがわからず、何を感じているのかもわかりません。喜びや悲しみをいっしょに味わうためには、目線を合わせなければなりません。しかも、高い方に目線を合わせるのではなく低い方に、強い方に合わせるのではなく弱い方に合わせるのです。
神さまは、私たち人間をこよなく愛してくださいます。それで、私たちの生きる目線に神さまの目線を下げてくださいました。私たちに「もっと上まで登って来い!」と叱咤なさるのでなく、神さまが私たちの貧しい現実、弱い現実に顔を並べてくださるのです。
もうすぐクリスマス。神の御子、イエス・キリストが馬小屋にお生まれになったのは、そんな神さまの愛のしるし、目線の低さをあらわしています。神さまのまなざしと愛は、私たちの人生と共にあります。
牧師 吉高 叶 (11/22 週報巻頭言より)
いのち、キリストと共に
生まれいづるときは 心のうちに
言葉をさずかり 神の愛につつまれ
まことの ふるさとへ
帰る旅がはじまる
永久(とわ)の愛を望み
ひたむきに祈ろう
生きているときには 苦しむうちに
喜びがめばえ 神の愛につつまれ
まことの ふるさとへ
帰る旅がはじまる
永久の愛をもとめ
たえしのび歩もう
死のふちにたつとき おそれのうちに
すべてはゆるされ 神の愛につつまれ
まことの ふるさとへ
帰る旅がはじまる
永久の愛を信じ
やすらかに憩おう
人生は旅である。まことのふるさとへとみちびかれる旅である。生まれ出たときから、与えられる一つひとつが、神の愛に包まれ、練られ、鍛えられ、そして赦されて、永久の愛に抱かれていく。誕生、人生、死、そして御国。
いのちはキリストと共に、ある。 牧師 吉高 叶
ほんとうのエコのはなし
「エコカー」とか「エコポイント」など、最近あちこちで「エコ」という言葉をよく耳にします。環境に優しい、とか、省エネ志向、ということにひっかけて使われるようになった言葉です。
ところで、この「エコ」。もともとは、ギリシャ語の「オイコス」(家)という語に由来します。神のもとにある一つの家、一つの家族という意味の語です。
「世界」(オイクーメネー)という語も、もちろんこの「オイコス」からできています。ですから、エコロジー(環境)もエコノミー(経済)も、そもそもは、共に一つの家を守り、一つの家族を形成していくための営みを示唆している言葉なのです。
このことは、決して言葉のなりたちだけの問題でなく、歴史の真理を表していると思います。わたしたち人間が、この「一つの家のために」という思想から離れてしまい、“自分だけ良ければ”、“今だけ良ければ”、とふるまってしまうとき、「エコ」が狂ってしまうということです。環境破壊(エコロジカルクライシス)がひきおこされ、経済危機(エコノミカルクライシス)によって社会や人間そのものが崩れていってしまうのです。
みなさまもご存知の、アメリカの公民権運動の指導者、亡きM.L.キング牧師の言葉に耳を傾けてみたいと思います。
「あるバラバラに分裂していた家族が、一緒に住まなければならない一軒の家を相続した。これがまさに人類が今直面している新しい大問題である。われわれは、一緒に住まなければならない大きな家<世界の家>を相続したのである。・・・中略・・・もはや別々に生きることができないので、どうにかして互いに平和の内に生きる道を学びとらなければならないのである。」
この演説は、人種差別を撤廃する運動の中で語られた言葉ですが、全てに通ずる普遍的な響きを持っています。そうです。「一つの家に共に住み、一緒に生きる」ということこそ、全ての分裂や破壊を回復させる大切な視点なのです。
いまこそ「エコ」という言葉が含んでいる意味の深さと広さを心に留めましょう。自然環境、人間の生命、経済・社会活動、その全てには「共に生きるように」との神さまの招きがあるということを。
牧師 吉高 叶(『GoodNewsしらかば』11月号より)
凄い話、凄い出来事
「原爆の図」をはじめ戦争の悲しみを大屏風に描くことを生涯のテーマとした画家・丸木位里さん、俊さん。彼らは晩年に「地獄の図」という作品を描いた。人間の罪深さ、人間のもたらす悲惨をそこに描き込んだ。そして「そこに自分たちもその絵の中にいなければならない」と、互いに互いの姿を最後に描き込んだ。
「地獄の絵」にまつわるそんな話を本人たちから聞かされた知人の鈴木伶子さんは、お二人に語りかえした。
「確かに、私たち人間は丸木さんが描いたように地獄行きの存在そのものだと思います。しかし、私たちの信じているキリスト、イエスという人は、自らも死んで“その地獄”に行き、罪の裁きに苦しむ世界に置かれた後、そこからよみがえり、その命の中に滅びるばかりの人間を連れ出してくださった方なのです」と。
その話を聞いた丸木位里さんはしばらく絶句した後で、「凄いはなしだ・・・」とつぶやき、また黙り込んでしまわれたそうだ。
そうだ、凄いはなしだ。地獄の図は神のいない虚無の図ではない。地獄に傷だらけのキリストが居て、苦しむ人々に手を伸ばして抱きかかえようとしている、凄い出来事なのだ。
わたしたちは、どこにいても、どうであっても、キリストに抱きかかえられていて、彼のところにいることができるのである。
牧師 吉高叶(11月1日 墓前礼拝より)
愛を知る喜び
聖書・コヘレトの言葉には「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」と記されています。創造主(神)を知るということは、自分の生命の価値を知るということ、生まれてきた意義を知るということと直結していくことだと思います。人は、多感な青春の日々に、自分の価値、位置、人生の意義について悩み、苦しみます。苦悩しながら自己を確立し、自立していくのだと思います。その確立・自立に向かう苦悩・葛藤の時にこそ、心に留めるべきもの、それが神の存在です。しかも、この創造主なる神の愛の想いを知ることこそが、確立・自立を豊かに支えてくれます。
私たちは、常に礼拝で、教会で、神を知る喜び、愛を知る喜びをわかちあうと共に、世代を超えて伝え合っていきたいものです。
「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えた神の愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」エフェソの信徒への手紙3:18-19
牧師 吉高 叶(10月25日巻頭言より)