クリスマスの華やかさとは裏腹に、そんな楽しさとは無関係にすごすしかない若者たちのあいだに、「オンリー、ロンリー、クリスマス」(ひとりぼっちの寂しいクリスマス)という言葉があります。
ひとりぼっち。誰ともつながっていない。この感覚・この感情が、たくさんの人々に広がっています。高齢者のあいだにも、そして若者たちにも。 「孤独は山の中にではなく、街の中にある」という言葉はほんとうです。
聖書は言います。「光は闇の中に輝いている」。では、闇とは何でしょうか。人々をもれなく包んでいる深い闇。それにのみ込まれたときに深々と命の炎がきえてしまいそうになる闇。それこそが、まさに「孤独」です。「誰ともつながっていない。そして誰からも必要とされていない。」そのとてつもない淋しさが、自分の心の芯のところにある「生きる灯」をかき消すのです。
マリアとヨセフは人々の交わりと繋がり(団欒)の中からはじき出されました。誰もこの二人を迎え入れませんでした。誰もこの二人を必要としませんでした。人々の輪の中にこの若く貧しい二人の居場所がなかったのです。二人は馬小屋にはじき出されました。
羊飼いたちは街の外に追い出された人々です。寒く暗い荒野で羊たちと一緒に草に埋もれ寝ました。人々の社会の中に彼らの居場所はありませんでした。
クリスマスは、人の輪の中から閉め出された人々のそばに神が共にいて、一緒に生きてくださる、という印が届けられた出来事です。そして、はじき出された者同士が、愛の印「イエス・キリスト」を真ん中にして出会い、喜び合った物語です。
祝いに行く場所がある。祝いに来てくれる人がいる。新しい命を祝うことができ、祝ってもらえる命を抱いている。マリアとヨセフ、羊飼いたちはそんな自分たちであることにどうしようもない喜びを抱いたのでした。
あなたは、決してひとりぼっちではありません。わたしたちは、あなたに出会いたい。そしていっしょにイエス・キリストという「愛し合う印」を囲みたいです。そのとき、わたしたちの間に、クリスマスが訪れるのです。
牧師 吉高 叶
神さまの目線
駅のホームに、手をつないだ母親と女の子が立っていました。女の子は時おり何かを指さして母親に語りかけます。そのたびに母親はしゃがみ込んで、女の子の顔の横に顔を並べ、指さす方を見て笑って話しかけます。微笑ましい光景でした。女の子の目には何が見えているのかしら、と、つい私までもがしゃがみたくなりました。
目線を合わせなければ、その人が何を見ているのかがわからず、何を感じているのかもわかりません。喜びや悲しみをいっしょに味わうためには、目線を合わせなければなりません。しかも、高い方に目線を合わせるのではなく低い方に、強い方に合わせるのではなく弱い方に合わせるのです。
神さまは、私たち人間をこよなく愛してくださいます。それで、私たちの生きる目線に神さまの目線を下げてくださいました。私たちに「もっと上まで登って来い!」と叱咤なさるのでなく、神さまが私たちの貧しい現実、弱い現実に顔を並べてくださるのです。
もうすぐクリスマス。神の御子、イエス・キリストが馬小屋にお生まれになったのは、そんな神さまの愛のしるし、目線の低さをあらわしています。神さまのまなざしと愛は、私たちの人生と共にあります。
牧師 吉高 叶 (11/22 週報巻頭言より)
いのち、キリストと共に
生まれいづるときは 心のうちに
言葉をさずかり 神の愛につつまれ
まことの ふるさとへ
帰る旅がはじまる
永久(とわ)の愛を望み
ひたむきに祈ろう
生きているときには 苦しむうちに
喜びがめばえ 神の愛につつまれ
まことの ふるさとへ
帰る旅がはじまる
永久の愛をもとめ
たえしのび歩もう
死のふちにたつとき おそれのうちに
すべてはゆるされ 神の愛につつまれ
まことの ふるさとへ
帰る旅がはじまる
永久の愛を信じ
やすらかに憩おう
人生は旅である。まことのふるさとへとみちびかれる旅である。生まれ出たときから、与えられる一つひとつが、神の愛に包まれ、練られ、鍛えられ、そして赦されて、永久の愛に抱かれていく。誕生、人生、死、そして御国。
いのちはキリストと共に、ある。 牧師 吉高 叶
ほんとうのエコのはなし
「エコカー」とか「エコポイント」など、最近あちこちで「エコ」という言葉をよく耳にします。環境に優しい、とか、省エネ志向、ということにひっかけて使われるようになった言葉です。
ところで、この「エコ」。もともとは、ギリシャ語の「オイコス」(家)という語に由来します。神のもとにある一つの家、一つの家族という意味の語です。
「世界」(オイクーメネー)という語も、もちろんこの「オイコス」からできています。ですから、エコロジー(環境)もエコノミー(経済)も、そもそもは、共に一つの家を守り、一つの家族を形成していくための営みを示唆している言葉なのです。
このことは、決して言葉のなりたちだけの問題でなく、歴史の真理を表していると思います。わたしたち人間が、この「一つの家のために」という思想から離れてしまい、“自分だけ良ければ”、“今だけ良ければ”、とふるまってしまうとき、「エコ」が狂ってしまうということです。環境破壊(エコロジカルクライシス)がひきおこされ、経済危機(エコノミカルクライシス)によって社会や人間そのものが崩れていってしまうのです。
みなさまもご存知の、アメリカの公民権運動の指導者、亡きM.L.キング牧師の言葉に耳を傾けてみたいと思います。
「あるバラバラに分裂していた家族が、一緒に住まなければならない一軒の家を相続した。これがまさに人類が今直面している新しい大問題である。われわれは、一緒に住まなければならない大きな家<世界の家>を相続したのである。・・・中略・・・もはや別々に生きることができないので、どうにかして互いに平和の内に生きる道を学びとらなければならないのである。」
この演説は、人種差別を撤廃する運動の中で語られた言葉ですが、全てに通ずる普遍的な響きを持っています。そうです。「一つの家に共に住み、一緒に生きる」ということこそ、全ての分裂や破壊を回復させる大切な視点なのです。
いまこそ「エコ」という言葉が含んでいる意味の深さと広さを心に留めましょう。自然環境、人間の生命、経済・社会活動、その全てには「共に生きるように」との神さまの招きがあるということを。
牧師 吉高 叶(『GoodNewsしらかば』11月号より)
凄い話、凄い出来事
「原爆の図」をはじめ戦争の悲しみを大屏風に描くことを生涯のテーマとした画家・丸木位里さん、俊さん。彼らは晩年に「地獄の図」という作品を描いた。人間の罪深さ、人間のもたらす悲惨をそこに描き込んだ。そして「そこに自分たちもその絵の中にいなければならない」と、互いに互いの姿を最後に描き込んだ。
「地獄の絵」にまつわるそんな話を本人たちから聞かされた知人の鈴木伶子さんは、お二人に語りかえした。
「確かに、私たち人間は丸木さんが描いたように地獄行きの存在そのものだと思います。しかし、私たちの信じているキリスト、イエスという人は、自らも死んで“その地獄”に行き、罪の裁きに苦しむ世界に置かれた後、そこからよみがえり、その命の中に滅びるばかりの人間を連れ出してくださった方なのです」と。
その話を聞いた丸木位里さんはしばらく絶句した後で、「凄いはなしだ・・・」とつぶやき、また黙り込んでしまわれたそうだ。
そうだ、凄いはなしだ。地獄の図は神のいない虚無の図ではない。地獄に傷だらけのキリストが居て、苦しむ人々に手を伸ばして抱きかかえようとしている、凄い出来事なのだ。
わたしたちは、どこにいても、どうであっても、キリストに抱きかかえられていて、彼のところにいることができるのである。
牧師 吉高叶(11月1日 墓前礼拝より)