【主イエスについていく】
魚を獲(と)る。それがこの男たちの生業だった。岸辺に立ち、湖面をにらみ、舟を送り出し、網をうった。さあどうだ。引きあげる腕にあの嬉しい重みがくい込むか。その喜びと落胆が、男たちのすべてだった。魚を獲る。糧を得る。それゆえに生き得たし、そのために生きた。それしか知らなかった。櫓のきしみ、湖面をたたく網。その音だけを聞いて男たちは生きていた。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」 突然、声を聞いた。生まれてこのかた聞いたことのない言葉だった。彼が誰で、どこへ行くのか。何もわからなかったのに、なぜだか、からだの真ん中に熱のかたまりが生まれた。
「ついていく」という生き方など、考えたこともなかった。が、そこに、知らないでいた生き方があるように思えた。
「ついていこう。」輪郭もわからないまま、男たちは、こみあげてくる熱いものに身をゆだねた。
人間をとる。彼・イエスのあとに従った男たちは、やがてそのしごとに伴う痛みと愛の深みに触れていった。そして、あの日の熱いものが冷めることはなかった。
●聖書マルコ福音書1:16-20 週報巻頭言 吉高 叶
【にぎりしめない、あきらめない】
“すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。”(コヘレト12:13)
聖書「コヘレトの言葉」は、その全体を通して「空しい」ということを語り続けます。この場合の空しさとは、人間の、万象のなりたちを見極めきれない小ささ、真理をつかめない貧しさ、不条理にさいなまれるしかない弱さを指しています。
人間にとって、それは確かに過酷な前提ですが、しかし、それが虚しい結論なのではありません。解りきれない人生、不条理に満ちた世界を生きるしかない私たちですが、コヘレトは、それゆえに「神を畏れ、その戒めを守って生きよ」「それが人生の結論だ」と言うのです。
人生が上記のように「空しい」として、さて、いかに生きるべきでしょうか。自己中心、利己目的、刹那の快楽で生きるしかないのでしょうか。いいえ。コヘレトは二つの励ましを届けてくれます。
「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」また、「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな」と。そうです。自分の恵みをにぎりしめないことと、明日をあきらめずに今日を誠実に生きることなのです。
●3月27日週報巻頭言 吉高 叶
揺さぶられながら
M9。震源地から離れた千葉や東京でも長い大きな揺れ。恐ろしかったですね。そしてなんと驚くべき、悲しむべき出来事でしょう。あまりにもいたましい各地の被害報告に呆然としてしまいます。
みなさんのご家族はご無事ですか。ご親戚はご無事ですか。何時間も歩いて帰宅された方々、ほんとうにお疲れ様でした。
救出を求める生存者の方々、帰るべきところに帰り着けない人々、家族の安否がわからない方々。一人ひとりが、生存へと、安堵へと導かれますように。
「○○市は壊滅」「電車車両が行方不明。」「駅が流された。」「200人〜300人の遺体があります。」日常会話では決して聞くことのない言葉に圧倒されます。「想定外」のことばかり。阪神大震災や中越地震を知っていても、想定できなかった悲劇にさらされています。
ほんとうに小さく弱い存在、人間。あらためて低い心をいただき、畏れの念をもって、ゆるされている今を生きていくしかありません。そして、この小さな人間の命と人生がどれほどかけがえのないものであるかを、受けとめ直しましょう。
犠牲者たちを悼み、すべての被災者たちの上に慰めと励ましを祈ります。
●3月13日週報巻頭言 吉高 叶
いつからでも、どこからでも
聖書テキスト マタイ福音書8:5−13
福音書記者マタイの報告によると、山上での説教を終え、山を降りてからの主イエスは次々に癒しの業をおこなわれます。「重い皮膚病の人」「ローマ軍百人隊長」「ペトロの姑」「ガダラ人の男」「中風の人」などです。それらはすべて、ユダヤ人が設けてきた「救われし者の枠組み」から排除された人たちでした。
主イエスの癒しは、単なる治療としての奇跡でなく、深い交わりと関わりを通した回復(恢復)であり、解放としての奇跡でした。そしてそれは「枠組み」を超えて、神の国の広がりを示すものでした。ユダヤ人も異邦人も、金持ちも貧者も、エリートも「地の民」も、「健常者」も「障害者」も、主イエスの交わりに招かれます。欺瞞の着物ははぎ取られ、憐れみの着物を着せられ、壊れた関係と断たれた交わりを癒されて、神の新しい民とされていくのです。
その中から、今朝はローマ軍の百人隊長と主イエスの出会いを見つめます。社会体制の中で縛られてきた一人の壮年が自分の「枠組み」の中から、懸命に手を伸ばし、主イエスの力をもらおうとした姿に、心撃たれるのです。
●3月6日週報巻頭言 吉高 叶
神の、さらなる包囲
聖書テキスト 列王記下19:1−20
もっとも低いところから見上げるとき、もっとも高いものが見えるのかもしれません。
ユダの王ヒゼキヤは、いま絶体絶命の崖っぷちに立っています。アッシリア軍に城壁を包囲され、陥落の一歩手前です。
アッシリア側から「お前たちの神は無力だ。他のあらゆる国々や神々がアッシリアの軍門にくだったように、お前たちの神もまもなく敗北するのだ」という罵りと恫喝の声があびせられます(たしかに、古代では、国々の戦いは同時に天上での神々の戦いと考えられていました)。
その時、ヒゼキヤは衣を裂き、低い心で神を見上げます。そして、ヒゼキヤが悟った真理は、神は、ただユダ(イスラエル)の神なのではなく、世界の神、唯一の生きた神だということでした。地上の国家(民族)の栄枯盛衰と、天上の神々の勝敗を結びつけて考える世界観から、唯一の神のもとで、総ての被造物が生かされているという真理にようやく行き着いたのでした。ヒゼキヤの祈りは、神のいと高き座を見いだした祈りです。最も低く困難な地点に立ったときに、最も大いなる真理に気づいていったのです。
●2月27日週報巻頭言 吉高 叶


