苦悩の使徒
「使徒たちがどれほどのもの」「パウロがなんぼのもの」。コリントの一部のクリスチャンたちは、ギリシャの哲学や知恵を身につけた自分たちを、霊的にも存在的にも高次元に到達した人間だと自負し、パウロや使徒たちの教えをないがしろにするような発言をしていたようです。
「もう聖書の戒めも乗り越えた。」「もう使徒もパウロも乗り越えた。」「われわれは誰からも束縛されない自由で賢い存在だ。」
パウロはそんな彼らにまっすぐ挑んでいきます。
「すべては与えられた恵みではないか。人は、ただ神の僕、恵みの管理者ではないか。人に誉れを与えるのも、人の業を審くのも、ただ神のみ。そのことを知らねばならない。王様にでもなったかのようなあなたたちに問いかけたい。真の王、主イエスはどのように歩まれたか。そして、どこに死なれたか。ほんとうの自由とは、人々の僕となることを選ぶことができるほどの、あの主イエスの貧しさと低さではないか。あの方に倣おう。仕え合い、互いに尊敬し合って生きていこう。」と。
●1月31日・週報巻頭言 吉高 叶
基礎
普通に過ごしている時にはつい忘れがちですが、いざというときに問題になるのは基礎です。基(もとい)・礎(いしずえ)です。建物でいうならば土台であり、技術でいうなら基本であり、人間でいうならば魂の根底にあるべき愛と平安です。また、教会の交わりにとってはキリスト告白(イエス様がわたしの救い主ですという信仰告白)です。
建物も、人生も、交わりもいろいろな建て方ややり方でつくることができます。しかし、基礎(土台)を据えることと、基礎を忘れない(忠実)ことがとても大切です。
建物に雨や風が吹きつけるように、人生にも試練や妨害がぶつかってきます。衝撃が加わり亀裂が生じます。そのとき、基礎に守られます。基礎があれば。それが崩れない土台であれば。
いま、組み建ててきた人生が崩れ、社会や人間そのものが倒壊する悲劇があちこちで起こっています。支える土台がなかったかのように倒れ方がひどいのです。交わりの絆がもろいのです。この社会は、人間と人間があまり組み合わされていないのです。
いまは、心して、人生や交わりの基礎に想いを寄せる時です。神の愛、キリストの十字架の救い、復活の希望。これこそ人生の基礎、交わりの基礎なのです。わたしたち一人一人が立たされているのは、イエス・キリストという土台の上にであり、そしてわたしたちは共にこの土台の上に、共に立っていく交わり、この土台の上で組み合わされている神の宮なのです。そしてこの土台は、ただ、人生の土台というだけではなく、死の土台であり、生きる者と召された者との土台でもあります。私たちは、生きる上で苦しむ。しかし、この土台の上で苦しむことが許されるのです。あなたも私も、喜びも悲しみも、生も死も、この土台に支えられています。イエス・キリストは、すべての基、すべての礎です。
●1月24日説教より抜粋
十字架を宣べ伝える
神は、人間の知恵を積むことによってとらえることはできません。また、人間の行いを清くすることによって近づける方でもありません。では、神はどこで見いだされるのでしょうか。神は、十字架におられます。
たとえば、15年前のあの阪神・淡路大震災の最中に、命を落とさざるをえなかった人々の絶叫の中に見いだすことができます。家族を失った人々の深い嘆きの中に見いだすことができます。そして今、ハイチで絶望の叫びをあげている人々のただ中に神はいらっしゃいます。十字架のキリストは、人々から捨てられたあのイエス様は、そのとてつもない苦しみと孤独と絶望の中におられるのです。
自然災害や理不尽な出来事に見舞われたとき、人は論じようとします。「それらはどうして起こったのか。」「どのような罪に対する神の審きなのか」「後で何かを教えるためなのか」。そのように問うたり、それに答えを与えようとすることこそが、人間の傲慢であり、神をつかんでしまおうとする人間の愚かな知恵です。それらは全て隠されているのです。にもかかわらず、人間がそれを説明してしまおうとすることを通して、どれほどたくさんの人たちを傷つけていることでしょうか。
しかし、ただ一つ、神がイエス様によって明らかにされた一つのことがあります。「十字架に苦しむ御子は、この嘆きとこの絶望の中に共におられる」ということです。わたしたち人間は、十字架に現されたこの一点の事実から、慰めと祈りとを起こしていくべきです。いま、ハイチの人々のことを心配しながら、わたしたちが知らなければならない根源的なことは、「キリストは、神さまは、あの中で共に苦しみ、あの絶望の中にいる人々の命を抱きしめている」ということです。
そして、私たちがしなければならないこともまた、できるだけ犠牲者たちと悲しみを共にし、この苦しみの意味を地上から問いながらも、絶望しないで生きていくこと。「生きていこうとする」ことにおいて被災地の人々とできるかぎり繋がっていくことができるようにと祈ることではないでしょうか。
1月17日・説教より抜粋
ひっくりかえったのです
パウロは「十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」と言います。
神が、わたしたちを救うために選ばれた手段、独り子が十字架で罪を背負う姿。これは、人間の知恵や経験値を超える事件だと言えます。人間の納得を越える業だと思います。神が悩む。神の子が苦しむ。その万能の力を放棄して、十字架から降りて来ず、罪人たちの赦しを祈りながら、苦しんで息絶えていく。こんな救い主の姿が、人間の知恵から生じますか?何という「愚かさ」でしょうか。力と権威を捨てた、何という低さでしょうか。
しかし、そんな愚かな愛、低められきった愛だけしか寄り添えない人間の苦悩があるのです。それのみしか伴えない人間の寂しさや、深い罪があるのです。
神の愛が、しかし、愚かで低い愛であってくださったから、わたしの中で、ひっくりかえるのです。わたしの罪が。わたしの無力さが。喜びに、感謝に、希望に、そして明日に、ひっくりかえるのです。
●吉高 叶(1月10日巻頭言)
神の恵みの物語
新年明けましておめでとうございます。今年も神の恵みに与り、喜びをわかちあって歩みましょう。
毎年、年末には聖歌隊が「数えてみよ、主の恵み」を賛美してくださいます。一年を振り返り、どれほど神の恵みと守りに支えられた生活であったかを想う心へと導いてくれます。けれども、そこにおいて、私たち人間の想いに照らしては「数えられていない恵み」があるのだろうと感じます。わたしたちはきっとたくさんの小さな賜物を見落としています。気に入らないこと、気にとまらないことの中に、神の恵み、神の賜物があったことでしょう。
しかし、わたしたちがどうであろうと、神は私たち自身を、そして教会という交わりを成長させてくださるために恵みを注いでくださっています。
それを少しでも見いだし、掘り出し、あるいは解るようになるまで待とうとすることができるなら、私たちは、今年も自分自身と教会の歩みが「神の恵みの物語」であることに喜びをおぼえることができるでしょう。今年も、どうぞよろしくお願いします。
●吉高 叶(1/3週報巻頭言)