【キリストに結ばれる、一つの体】
パウロは、教会が一つの体であることを、まさに身体の四肢のたとえを用いて話します。手と足の働きの違いがある。目と耳の役割の違いがある。けれども共に一つの身体だと。
この身体のたとえはとてもわかりやすいのですが、実は、パウロが考案したものではありません。当時、ローマの植民地ではよく引用されていた常套のフレーズでした。でも使い方がまるで逆です。ローマ帝国の支配構造を維持し平和と安定を保つために、下層民は下層民としての立場に、奴隷は奴隷としての立場に、不満を持たずに甘んじているように。身分の差別や富の不均衡は、帝国構造の秩序維持に必要なものなのだ、と説き伏せるためのたとえでした。
しかし、パウロは、同じ体のたとえを用いながら全く別のメッセージを放っています。一つの部分が苦しめば全ての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全ての部分が共に喜ぶという一つの体の特性、痛みや喜びのつながりの特性に注目します。さらに、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」と言うように、人間が考えてしまう賜物論(人間の能力論)を、神の働きのもとで、まったく相対化してしまいます。
ここに、新しい一致の思想、オルタナティブな共同性の提示があります。
●吉高 叶(3月7日 週報巻頭言)
【赦し・交わり・希望の食卓】
M.L.キング牧師のワシントンでの演説「私には夢がある」は、今も私たちの心を揺さぶります。その夢とは「食卓の風景」でした。かつての奴隷所有者の子孫たちと、奴隷の子孫たちが、皮膚の色や背景の違いを超えて共に一つのテーブルに座っている夢です。
神の国を、共に座る食卓としてイメージすることは、今日、尚、有効なことです。世界の人々は未だに食物をわかちあえず、一つのテーブルにつくことができないままだからです。そして、そのような時代の教会の「在り方」を想うとき、教会を「主イエスの食卓」として理解したり、省みたりすることもまた、とても大切な視座ではないかと感じます。
「いったい、この食卓には、誰が共にいるのか。」「ここで、あなたは何を味わっているのか。」この問いが響く、それがイエスの食卓です。
罪人らとの食事。重病人の家での食事。5000人の供食。そして最後の晩餐。
主イエスの食卓で、人は驚くべき憐れみと、赦しと、招きと、愛を味わうのです。
●2月28日週報巻頭言・吉高 叶
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。」
わたしたちは、それぞれが人生の荷車を引っ張って生きています。自らの闘病、肉親の介護、経済的負債、対人関係のこじれ、過去のトラウマなどです。
自分の荷車ですから、自分で引いています。一生懸命に引いています。人生とは、かくも重い道のりです。
しかし、イエスさまは呼びかけてくださいます。「わたしのもとに来なさい」と。
では、「わたしのもと(イエス様のもと)」とは、いったいどこにあるのでしょう。人生を放り出し、荷車を投げ捨てて、どこかに行けばいいのでしょうか。いいえ。わたしの人生はあくまでもわたしの道として歩むべきです。けれども、イエス様が「わたしの道」に寄り添い来て、わたしの人生の道の中で「わたしのもとに来なさい」とおっしゃるのです。自分の荷車を引きながら行くしかない「わたしの人生の道」に、「イエス様のもとに」という場所があるというのです。
イエス様はおっしゃいます。「あなたがたを休ませてあげよう」と。
「荷を降ろさせてあげよう」ではなく「休ませてあげよう」です。やはり、わたしの人生を、わたしが歩んで行くのです。けれども、休みが与えられます。慰めが与えられます。また、人生の荷車の豊かな引き方、平安な引き方を、イエス様に学ぶことができます。
とかく、自分の人生の荷車を引きずりながら、自分自身を痛めつけている私たち。
イエス様のもとで休みつつ生きること、そして柔らかく荷車を引く引き方を学ぶこと。それを大切にしていきたいと思います。
●三郷家庭集会の話より
「福音にあずかる私たち」
「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」パウロのこの言葉はとても勇ましく聞こえます。「たとえ火の中水の中」といった、情熱的で決死の献身、もう脇目をふらない一途さを連想させる言葉でもあります。
しかし、この言葉の「熱さ」に目を引かれるばかりに、この言葉が含意している「他者性」のことを見落としてはなりません。パウロは「どんなことでもしようとする自分の情熱」に関心があるわけではないからです。
彼は、目の前に出会った人が、キリストにとらえられるために、その人がどんな立場の人であっても、そのままを受け止め、その人の全人格に向き合うこと、そのためには「その人のようになる」ことの大切さを語っているからです。
「どんなことでもします」とは、「今、目の前のことに大切に向かい合います」ということなのです。「どんなことでもします」とは、「キリストに向けて、いま、これを、この人を、この時を尊びます」ということなのです。「どんなことでもします」は、全て「福音に共にあずかる」ことにかかっています。
だから、わたしたちは「どんなことでもできる」人間になることに憧れる必要はありません。ただ、「いま、ここで、あなたと福音をわかちあえる、そんな私になれますように」と祈れば良いのです。
●吉高 叶(2月14日 週報巻頭言)
植えられたところで咲く
「召された時の、そのままを大切に、そこで精一杯主に仕えて生きよう。」
パウロはコリントの教会にそう呼びかけています。
生粋のユダヤ人か、異国育ちのユダヤ人か、それともローマ人か、ギリシャ人か。富裕層たる自由人か、元奴隷出身の自由人か、それとも奴隷身分か。
自己理解を振り分けてしまうこうした座標軸がコリントの街にはあり、様々な異相が人々の間に見られ、それが原因でいくものグループに分かれてしまおうとしていたのがコリントの教会でした。
すべての人間を創り成長させてくださるのは神。そして救いの土台はキリスト。さらに、終末の審判の前で全ての人間は等しく扱われる。しかも「その日」は近い。パウロは、このシンプルで明快な確信に立っています。また、「キリストの十字架の救いに与る者」という新しい自己理解(アイデンティティー)の共有を呼びかけています。
わたしたちも、この世の基準に翻弄させられず、召された時の自分を喜び、植えられたところで花を咲かせていきたいものです。
2月7日・週報巻頭言