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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-21 21:31:35 (1655 ヒット)

                   光は闇の中で輝く
夫ヨセフの親族の村でさえ拒絶され、誰からも祝福されず、つきあいから追い出され、家畜の洞穴の中で出産するしか術のなかったマリア。悲しみと孤独と心細さの暗闇の中に沈み込んだことでしょう。けれども彼女は、その暗黒の中で、もう一度あの言葉を口にしたのではないでしょうか。「わたしは主のしもべです。みこころがこの身になりますように」。
深い暗闇の中で、彼女は自らの胎の重さと出産の痛みを通して、主のみこころが成就する未来を味わっていました。彼女が宿していたものは未来でした。彼女が産み出したものは光でした。
暗闇は、家畜の穴から荒れ野につながっています。果てしない暗闇です。その暗闇の中に座り込んで生きてきた羊飼いたちが、光に立たされてやってきます。さらに深く続く暗闇の果てから、占星術の学者たちが、光に導かれてやってきます。そうです。クリスマスの舞台は「暗闇」です。「暗闇の中に。暗闇の中で。暗闇の中から。」
そして、クリスマスのテーマは「光」です。光は暗闇の中で輝く!
これが今も変わらぬクリスマス事件の真相です。今も変わらぬ、クリスマスの!
●吉高 叶(12月20日(週報巻頭言)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-13 20:51:02 (1695 ヒット)

                      頂点と底辺
  ルカ福音書2章1-7節。主イエスがどうして飼い葉桶に寝かされたのかを語る聖書の言は極めて短いです。けれども、このわずかな記述の中に、あまりに対称的なふたりの王が明確な意図をもって並べられています。ひとりは世界の頂点に君臨していたローマ皇帝アウグストゥス。もうひとりは、およそ人間が寝かされるはずもない飼い葉桶にしか、場所のなかった主イエスです。
  主イエスが飼い葉桶に寝かされることになったのは、決してベツレヘムの宿屋が満室だったからではありません。結婚前にイエスを孕んだマリアを「罪・けがれの女」と差別し拒絶したヨセフの親族たちが、一族の村ベツレヘムの、どの家の敷居も跨がせなかったからでした。
  主イエスの境遇は単に貧しいだけではありません。卑しめられ、はじかれた人々の生きる底辺。神の子は、そこに寝かされ、そこを生きる人になりました。イエスの生涯は、「そこ」を生きることにおいて徹底しています。そして最後はあまりにも悲惨な十字架です。
  人の見えないもの、人が見ないところ。人が背を向けるところ。そこに神の言・神の業が宿ります。神の愛は、そこを働き場となされるのです。
  クリスマスはその事を告げています。
                                                                    吉高 叶(12/13巻頭言)

 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-06 15:24:18 (1601 ヒット)

                  「恵み」がやってきた
  マリアのところに突然あらわれた天使は、彼女に「恵まれた人」とか「あなたは恵みをいただいた」とか、「恵み」を告知します。けれどもマリアにとってそれは恐怖と不安以外の何ものでもありませんでした。彼女は、思わず「恵み」を拒絶してしまいます。
  「恵み」とはいったい何のことなのでしょう?
  一般的に恵まれた人とは、幸せいっぱいの人のことです。美貌に恵まれたとか、才能に恵まれたとか、強運に恵まれたとか、人間から見てラッキーなこと、順調なことを言い表すときに使います。けれども、聖書は、恵みをそのように捉えていません。人間の求めるものへの嬉しい答えが恵みではないし、人間が欲しいと望んでいるもののことではありません。「恵み」とは、ずばり、神さまの救いの御業のことです。ですから、「恵まれた人」とは望みが叶えられた人のことでも、人生にいわゆる幸福を引き寄せている人のことではなく、「神の救いの業のために用いられる人のこと」です。恵みを受けるとは、神さまの救いの業に関与させられることであり、神さまの救いに参与することなのです。
  マリア物語。それは、マリアが望み叶って幸せになった、そういう意味での「恵まれた女の物語」ではありません。神の「恵み」がぶちあたってきたのです。救い主を与えようとする「大いなる恵み」そのものが。この神の恵みに遭遇し、この神の恵みの業のために用いられる意味において、マリアは「恵まれた人」なのです。そして神は、この新しい大いなる「恵み」を一人の少女に届けることによって、「人間にとって真の恵みとは何か」、そのことについての大転換をもたらそうとしているとも言えます。
  「恵み」をどう受けとめて人生を生きるか。「恵み」をどう理解して人生を生きるか。このことによって、人間の喜びや生き方は大いに変えられていきます。そしてまた、「恵み」をどこにどのように見いだすか、が変わるときに、人間にとって試練や苦しみの意味もまた変えられていくのです。
                                                                             吉高 叶(12月6日説教より)
 

                    


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-12-02 14:32:09 (1611 ヒット)

 クリスマスの華やかさとは裏腹に、そんな楽しさとは無関係にすごすしかない若者たちのあいだに、「オンリー、ロンリー、クリスマス」(ひとりぼっちの寂しいクリスマス)という言葉があります。
  ひとりぼっち。誰ともつながっていない。この感覚・この感情が、たくさんの人々に広がっています。高齢者のあいだにも、そして若者たちにも。 「孤独は山の中にではなく、街の中にある」という言葉はほんとうです。
  聖書は言います。「光は闇の中に輝いている」。では、闇とは何でしょうか。人々をもれなく包んでいる深い闇。それにのみ込まれたときに深々と命の炎がきえてしまいそうになる闇。それこそが、まさに「孤独」です。「誰ともつながっていない。そして誰からも必要とされていない。」そのとてつもない淋しさが、自分の心の芯のところにある「生きる灯」をかき消すのです。
  マリアとヨセフは人々の交わりと繋がり(団欒)の中からはじき出されました。誰もこの二人を迎え入れませんでした。誰もこの二人を必要としませんでした。人々の輪の中にこの若く貧しい二人の居場所がなかったのです。二人は馬小屋にはじき出されました。
  羊飼いたちは街の外に追い出された人々です。寒く暗い荒野で羊たちと一緒に草に埋もれ寝ました。人々の社会の中に彼らの居場所はありませんでした。
  クリスマスは、人の輪の中から閉め出された人々のそばに神が共にいて、一緒に生きてくださる、という印が届けられた出来事です。そして、はじき出された者同士が、愛の印「イエス・キリスト」を真ん中にして出会い、喜び合った物語です。
祝いに行く場所がある。祝いに来てくれる人がいる。新しい命を祝うことができ、祝ってもらえる命を抱いている。マリアとヨセフ、羊飼いたちはそんな自分たちであることにどうしようもない喜びを抱いたのでした。
  あなたは、決してひとりぼっちではありません。わたしたちは、あなたに出会いたい。そしていっしょにイエス・キリストという「愛し合う印」を囲みたいです。そのとき、わたしたちの間に、クリスマスが訪れるのです。

                                     牧師 吉高 叶
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2009-11-22 21:30:10 (1681 ヒット)

             神さまの目線
  駅のホームに、手をつないだ母親と女の子が立っていました。女の子は時おり何かを指さして母親に語りかけます。そのたびに母親はしゃがみ込んで、女の子の顔の横に顔を並べ、指さす方を見て笑って話しかけます。微笑ましい光景でした。女の子の目には何が見えているのかしら、と、つい私までもがしゃがみたくなりました。
  目線を合わせなければ、その人が何を見ているのかがわからず、何を感じているのかもわかりません。喜びや悲しみをいっしょに味わうためには、目線を合わせなければなりません。しかも、高い方に目線を合わせるのではなく低い方に、強い方に合わせるのではなく弱い方に合わせるのです。
  神さまは、私たち人間をこよなく愛してくださいます。それで、私たちの生きる目線に神さまの目線を下げてくださいました。私たちに「もっと上まで登って来い!」と叱咤なさるのでなく、神さまが私たちの貧しい現実、弱い現実に顔を並べてくださるのです。
  もうすぐクリスマス。神の御子、イエス・キリストが馬小屋にお生まれになったのは、そんな神さまの愛のしるし、目線の低さをあらわしています。神さまのまなざしと愛は、私たちの人生と共にあります。
                                             牧師 吉高 叶 (11/22 週報巻頭言より)


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