【復活。喜ばしい「結局」】
主イエスに対する弟子たちの愛には野心が含まれていた。イエスへの尊敬と傾倒は嘘ではなかったが、自らの功名心が多分に混じっていた。そして、そんな弟子たちの愛は、十字架の前であっけなく砕け散ってしまった。
マグダラのマリアら女性たちには、主イエスへの人間的愛が満ちていた。自己の野心とは無縁な深い愛である。しかし、悲しいことだが、そのような深い愛ゆえに、最終的には愛するものの墓の前に立ちつくさねばならなかった。そのように、人間の愛は、ふたつの悲しい結論を持つ。十字架の前で崩れるか、墓の前で立ちつくすかである。そして、いずれにしても、終わりを迎えてしまうのである。
しかし、人間の愛が、つまりは人間の人生が、悲しい結論を迎えてしまう場面からこそ始まる新しい生命がある。それが、主イエスの復活であり、神のわたしたちへの愛の御業である。
「あの方はよみがえられて、ここにはいない」。人間の「結局」が、「結局」ではない。その背後にある、神の業の「結局」を信じよう。 ●吉高 叶
【どこまでもインマヌエル】
「十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやる」。この言葉に、人間の「信仰」に潜む不遜と傲慢が十分に込められています。人間は、神に要求し、神を診断し、神を認定するのです。それを「信仰」だと考えています。
もし、主イエスがあの時十字架から降りてきたら、どうだったでしょうか。
「神の子」の力で、壮絶な苦しみと悲惨の場から離れてしまわれたなら・・・。世界は彼の力を崇拝するでしょう。しかし、罪のもがきと死の恐れを抱え込みながら生き、自らの孤独な死を死ななければならない私たちとはかけ離れた、異質な存在であったでしょう。
人間の生の実態において、起こりうる最悪の死のすがたに留まり、人間が舐めさせられる最悪の絶望を味わい、神と人から切り捨てられた「罪人の死」を主イエスは死にました。殺される死を彼は死にました。
主イエスは、私たちの生きる苦しみと無関係な方ではないし、私たちの死と無関係な方ではないのです。私たちのあらゆる命の場に、インマヌエルしてくださる方なのです。
●吉高 叶
【復活を信じ、誠実に生きる】
パウロは主イエスの復活の証人です。他の使徒たちと同様に、復活の主に出会って回心し、その驚きと喜びを伝える伝道者となりました。パウロにとっては、主の復活は全ての力の源であり、この世の生の営みの希望でした。
けれどもコリントの教会には、「死者の復活などないし必要ない」と主張する人々が現れていました。自分たちは、すでに霊的次元を生きる存在であり、「不死」の存在である。だから、今さらこの世界に執着はないし、肉体に意味を見いださないという考え方からです。パウロは、彼らの思い違いと対決します。
私たちに与えられるのは不死ではなく復活です。この世での精一杯で誠実な生の営みに主は寄り添われ、私たちの生に在る罪をあがない、そして苦悩の死を共に死んでくださいます。しかし、私たちは、キリストのよみがえりに与り、復活を約束されます。
この世離れした霊的存在になれるという幻想は危険です。そうではなく、復活を信じるからこそ、この生を誠実に生きることこそ、主の御心なのです。
●吉高 叶 3月21日 週報巻頭言
【キリストに結ばれる、一つの体】
パウロは、教会が一つの体であることを、まさに身体の四肢のたとえを用いて話します。手と足の働きの違いがある。目と耳の役割の違いがある。けれども共に一つの身体だと。
この身体のたとえはとてもわかりやすいのですが、実は、パウロが考案したものではありません。当時、ローマの植民地ではよく引用されていた常套のフレーズでした。でも使い方がまるで逆です。ローマ帝国の支配構造を維持し平和と安定を保つために、下層民は下層民としての立場に、奴隷は奴隷としての立場に、不満を持たずに甘んじているように。身分の差別や富の不均衡は、帝国構造の秩序維持に必要なものなのだ、と説き伏せるためのたとえでした。
しかし、パウロは、同じ体のたとえを用いながら全く別のメッセージを放っています。一つの部分が苦しめば全ての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば全ての部分が共に喜ぶという一つの体の特性、痛みや喜びのつながりの特性に注目します。さらに、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」と言うように、人間が考えてしまう賜物論(人間の能力論)を、神の働きのもとで、まったく相対化してしまいます。
ここに、新しい一致の思想、オルタナティブな共同性の提示があります。
●吉高 叶(3月7日 週報巻頭言)