イエスキリストにつながる道
誰もが、平和を望んでいます。しかし、世界平和は来ていないし、過去のものではないのです。 戦前の日曜学校の教案を見ると、始めから戦争賛成と言っているのではなく、主キリストの十字架を中心として争いのない世界を目指す提案をおこなっていました。それでも戦争への歩みの中で、教会は、沈黙し、さらに協力の働きに転じていったことを知ることにもなりました。なぜ教会は、沈黙の中にいたのだろうか? 当時の「普通」の中に、埋もれることが、差別や、抑圧を回避できる方法と考えたのかもしれないとも思うのです。戦後のわたしたちは、主日礼拝だけでなく、「生の全境域」における主告白を目指し、教会教育に取り組んでいます。
「平和の福音」を、告げ知らせるために、この世にキリストがおいでになった。この出来事を受けて教会は、曖昧にすることをやめて、真昼のような光の中で、非暴力と絶対的平和主義へと歩むしかないと語り続けるのです。そのために、教会は、十字架の恵みの応答として、平和宣言を採択し、イエスキリストにつながる道を、共に歩むものとされていくのです。
●週報巻頭言 神学生 武林真智子
【愛が灯った!】
今日は夏期学校の子どもたちとの合同礼拝。イエスさまに出会って、暗い心に光り(愛)が灯った人々の嬉しい物語を受けとめていきます。
礼拝後の教会学校分級では、ヤコブ書1章から、「試練と忍耐」とについて考え合います。初代教会の人々にとって(そして現代を生きる私たちにとっても)、信仰とは「待つ生き方だ」と言えるでしょう。神の国を待つ。神の義があらわれるのを待つ。真の解決を待つ。そして救いを待つ・・・。
しかし、人間は待てないのです。待てない時、人は思い煩い、怒りを深め、自らの運命を呪い、神を捨てようとします。「待っていて何になる」というサタンの誘惑と、自分の想いを実現したい欲望とが手を結び、深い罪の苦悩に陥るのです。
待つ生き方に立ち続けるために、私たちは、信じること、祈ること、交わることを必要とします。待ち続けることを確信するために何よりも御言が必要です。そして、神は、神を待ち続ける人生のために良い贈り物、完全な賜物をくださいました。それこそが愛、それこそが主イエス様です。
●週報巻頭言 吉高 叶
【寝床ごと主のもとに】
主イエスのいる家にたくさんの人々が集まっていました。自らの関心と足とでこの家やってきました。自己決定的し、自分の足でこられる「健常」な人々です。そこに、床に寝かされたまま運ばれてきた人がいます。友人たちの計らいと労力によってようやく主イエスの前にたどりつきます。自己決定が難しく、自分の足ではい行けないハンディを負うています。しかし、この家の中にあって、主イエスの救いの宣言は、この寝たままの男に投げかけられました。彼にこそ救いが与えられたのです。
そうです。私たちは、救い主の前に、寝床ごと運ばれていけば良いのです。受け身のまま、世話を受けながら、みっともなく感じる姿のまま、あの方と出会えば良いのです。いや、むしろ、自分で決め、自分の足で、キリストのもとに進み出ているかのように私たちが思うとき、私たちは忘れているだけなのです。実は自分が「寝床」にしばりつけられている不自由な者であるという事実を。私たちは「寝床ごと」主イエスに出会い、救われるのです。
●7月18日週報巻頭言
【八方ふさがり。開く天の窓。】
詩篇3編は、八方ふさがりの中で為したダビデの祈りです。イスラエル史の中にあって、もっとも傑出し、尊敬されてきたダビデ王ですが、この祈りの時には、崖っぷちの中にありました。
王位剥奪を狙う息子アブサロムの陰謀により、ダビデ家臣が次々と寝返り、友人たちもダビデを離れていきました。孤立するダビデを、アブサロム軍が満を持して襲いかかります。かろうじて王宮を脱出したダビデが、逃亡の道すがらに祈った祈りが、この詩篇3編。岩陰に隠れ、森の茂みに身を隠し、無念と空しさと恐怖に囲まれながら、ダビデは、主に顔を挙げて「あなたは私を囲む盾」と祈ります。実際には、敵に囲まれていながら、「しかし、私は主に囲まれているのだ」と信じる祈り。八方ふさがりの中で、ダビデには「天の窓」が開いています。
「人間」をギリシャ語でアンスローポス(上を見上げる者の意)と言います。主を見上げることが真の人間らしさだとすれば、それは快進撃の道のり中からではなく、八方ふさがりの中から産まれ出ずるものなのかも知れません。
●7月11日週報巻頭言 吉高 叶
【ふたつの道】
ある大先輩牧師の、端的な言葉が心に響く。「人にはふた通りの生き方しか無い。神を信じて生きるか、神を信じないで生きるかの、どちらかだ。」
神を信じて生きる人にも、信じないで生きる人にも、人生は与えられる。信じる人生にも苦しみはあり、信じない人生にも喜びはある。どちらの人生にも信条は生まれ、意義が立つ。どちらの人生も重く、尊い。しかし、わたしたちは知っている。「神は生きておられる。ふた通りの道を選べるとしても、わたしたちは神を信じて生きる。そこに、幸いの道があるから。」
詩編1編の1節には、神の幸いを知る者たちが「避ける道」が記されている。「神なき者のはかりごと」に従わないこと。「罪人の道」にとどまらないこと。「神を嘲る(傲慢)人々」と共に座らないこと。この三つである。この三つは、絶えることの無い「思い煩い」と「罪の苦悩」と「荒(すさ)み・呪い」とを人生にもたらせ続ける。
しかし、幸いなる者は、これらから助け出されていく。「神を信じる」というその一点において。 7月4日週報巻頭言 ●吉高 叶