【出発する人生への出発】
聖書は私たちに一つの生き方を迫ってきます。それは「断念」することと「出発」することです。自分の喜び、自分のやり方、自分の計画、そうしたものを断念しつつ、神さまの業や隣人の喜びに向かって出発する、そんな生き方です。
聖書の登場人物のすべての人々が、この断念と出発を人生に経験しています。断念することを通して祝福を受け、出発することを通して恩寵を身に受けているのです。
創世記12章からは族長物語といって11章までのいわゆる人類全体を根源的に扱う記述とうって変わって、神の呼びかけを聞いて出発したアブラムという人物にフォーカスがあてられていきます。アブラムの出発は、いわゆる故郷に錦を飾る立志伝でもなければ、次のステージに移る門出でもありません。目的や目標を定めて立ち上がる出発ではなく、神さまと生きる、信じて生きる、という「生き方の変換」のことです。結果、何か偉業を成したかというとそうでもありません。ただ神さまを神さまとし、自分をそのしもべとして生きたということです。彼は出発する人生の出発者です。
●6月19日週報巻頭言 吉高 叶
【求心力と遠心力】
「バベルの塔」の物語を読んで気づかされることですが、たいへん興味深いことに、同一性や均一性による「求心力」に腐心したのは人間なのであって、神さまは逆に「遠心力」によってそれを阻止し、人間の多様性や多元性を良しとされました。考えてみれば、神さまの創造された被造物は実に多様性に満ちています。多様でありながら、互いに生命世界に参与し、影響し合っています。
「バベルの塔」が破壊され、人間が違った言語を持たされ、異なった地域に散らされていったことを、「罰」として消極的に理解するのか、それとも「恵み」として積極的に理解するのか。そこに「人間社会」「人間関係」のイメージの違いがあらわれていくように思います。
人間の歴史を振り返るなら、一つの民族による他の民族支配が画策されるとき、言語や文化の強要が行われたことを私たちは知っています。人間はいつの時代も、同一性による求心力を手にしたいという欲望を持っていて、それが肥大化し「有名になろう(名をあげよう)」とするのです。つまり、神になりかわって支配者になろうとするのです。そこに悲劇が産み出され続けました。同一性を志向することが、逆説的ですが、共に生きる妨げになってしまう。それが人間の深刻なパラドックスです。
多元性、多様性へと遠心力を発揮される神さまの御業は、やはり「恵み」として理解したいと思います。
●6月5日週報巻頭言 吉高 叶
【虹をみるたびに】
「ノアの箱船」の物語のテーマは、つい考えてしまいがちな「審き」や「滅ぼし」にあるのではありません。神の祝福される新しい生命世界への招きこそが真のテーマです。
英語のrainbowに良く示されていますが、虹とは「弓(bow)」のことです。神が、この世界に向けて、(恐らくは懲らしめのために)手にしていた弓を手放し、置いたのです。そして神ご自身が、虹を見るたびに、この世界を慈しみ、憐れむと約束してくださったのです。そんな祝福の世界(弓を手放す世界)に私たちは招かれている。このことをこそ、虹をみるたびに、想起していくべきなのです。
ノアは、まだ雨も降らないうちから、神の声に従って、巨大な箱舟づくりに取り組みます。「今、必要なもの」のためだけにではなく、「やがて必要になるもの」、そして「本来、必要なもの」のために、一見しては徒労と思えることに向かい合うのです。ここにノアの「正しさ」の秘密が隠されているのではないでしょうか。「箱舟をつくる人生」とは、どういう生き方なのか。ノアは、私たちに問いかけてくれています。
●5月29日 週報巻頭言 吉高 叶
【ゆるしのしるし】
カインとアベル。この兄弟に起こった事件は、あまりに不幸で悲劇的です。そして、たくさんの疑問が残ります。登場人物を並列に観るのではなく、肝心な事は、視座を一本に絞り、そこに自らを置くことです。つまり、この物語は「カインとアベルの物語」ではなく「カインの罪と苦悩の物語」なのであり、私たち人間は、みなカインなのです。
カインは、男と女の肉体の交わりから生まれた初子です。その「人類の初子」が、いきなり「他者(きょうだい)」を殺してしまいます。壮大で優美な天地創造が、人間の創造を境に、あっという間に調和を崩し、血塗られてしまいます。それほどに、人間の罪は「存在すること」そのものに直結しているのです。人間は途中で罪人になるのではなく、そもそも生を受けることの素晴らしさと罪の苦悩とは表裏一体なのだと思います。
聖書は、その冒頭から「神の愛と人間の罪」という主題を明確に突きつけます。しかし聖書は、「罪人を赦し救う神の愛」という「真の核心」に流れ込んでいきます。そして、その核心こそが、イエス・キリストです。
●5月22日週報巻頭言 吉高 叶
【生命の中央】
人は、神と向かい合うように、神の息を吹き込まれました。また人は、共に向かい合うように骨と肉を分けあって男と女に造られました。そして人は、神から「自由」を許されました。さらに、生命世界を豊かに治めるようにと「使命」をいただいたのです。神と人と世界が結び合う調和した世界、それが「エデン」でした。
エデンの中央には、二本の木がありました。「命の木」と「善悪を知る木」です。人間は神から、すべてのものに対する自由を与えられていましたが、唯一、禁じられていたことは、この中央の木から取って食べてはならないことでした。
どういうことでしょうか?それは、「生と死の意味づけ」と「善と悪の価値づけ」は、神の業・神の領域であって、人間がそれを握ってはならないという明確な限界設定なのだと思います。
しかし、人間はそれを踏み越えようとします。神のように、その領域の主人になろうとします。その結果、人間は欲望と支配と争いと怒りにのみ込まれ、神と人との調和した世界=エデンを失って行くのです。
●5月15日週報巻頭言 吉高 叶