【祝福・どんでんがえし】
アブラハムの孫たちは双子でした。どちらが兄で弟なのか?便宜的にはどちらかを兄と定めはしますが、どちらも同時に宿った子どもです。すると「長子の権利」「長子の祝福」をどちらが受け継ぐべきなのかもほんとうのことは人間にはわからず、便宜的に定めるしかないのです。
エサウとヤコブは、この曖昧さと人間の便宜の中で宿命づけられます。ヤコブは「弟」と位置づけられてしまった自分の宿命と闘います。父の祝福を受け取ることにこだわり、兄のエサウの隙を狙い続けるのです。一方、「兄」と位置づけられたエサウは、その便宜上の権利に安住し、うっかりその特権を軽んじてしまうのです。ヤコブのこだわり勝ちです。祝福はヤコブの手に渡ってしまいます。
ところが、面白いのはそこからです。祝福を手にしたはずのヤコブの方が、父の家を逃げ出し、寄留者となって生きて行かねばならなくなるのです。どんでん返しのどんでん返し。そうです。長子の祝福とは、土地や財産を受け継ぐことではなく、「出発する人生」を追体験するということだったのでした。
●7月17日 週報巻頭言 吉高 叶
【天を仰ぎ、地を掘り下げる】
アブラハムの息子・イサクの人生。その労苦が「井戸を掘る」という象徴的行為にあらわされています。イサクはアブラハムから遺産だけでなく、夢や約束も引き継ぎました。そして「出発する人生」という生き方まで受け継ぎ、追体験をしていくのです。
カナンには、アブラハムが旅路の節目に掘った井戸が、随所に存在します。けれど、イサクがすんなりとその恩恵に与ることは許されませんでした。イサクもまた、自分自身で場所を見つけ、自らの手で井戸を掘っていくしかないのです。
妨害や横取りに合い、何度も悔し涙を流します。強国に迎合し同化してしまえば、それらの苦労から解放されるのかもしれませんが、イサクはアブラハムのたどった約束の旅路を、独自にたどり続けます。
そのようにして、アブラハムの聞いた約束は、もはや父の夢ではなく、イサク自身の夢となっていくのです。
しかし忘れてならないのは、人間による夢の継承の背後に、神さまの約束は生き続けているという事実です。神さまのビジョンこそが、人と人、世代と世代を繋いでいく真の力なのです。
●7月10日週報巻頭言 吉高 叶
【おののきの往路、喜びの復路】
100歳になって、アブラハムはようやく子どもを授かります。神の召命に向かって出発して25年。やっと手にした約束への手がかりでした。イサクと名づけたこの一粒種こそが、彼の「出発する人生」の結実でした。彼はどれほど深くイサクを愛し、イサクに執着したことでしょう。
幸福な日々を引き裂くように、突然、あまりにも過酷な神の挑戦がアブラハムを直撃します。「モリヤの山でイサクを犠牲として捧げよ」と言うのです。彼は、おののきと悶絶の夜を過ごし、暗闇の中で絶望と不条理に苛まれたのでした。
翌朝、アブラハムは出発します。イサクを連れ、薪を積んで。イサクとの幸せな天幕にとどまらず、神の命じる場に出発します。彼は、神への出発、神への飛躍をあくまでも選び取るのです。しかしすでにその時、その道の行き着く所には神の備えと祝福が用意されていたのです。
主の山に備えあり。私たちも、常に自己の結実と執着の場から出発するように招かれています。もし出発しないならば主の備え賜う驚くべき恵みに出会うことも、また、できないのです。
●7月3日週報巻頭言 吉高 叶
【神への飛躍】
神の召命に従って出発してから20年が経ちました。しかしアブラムには、未だに約束の兆候が届けられていません。
「あなたを大いなる国民とする」という約束でしたのに、まだ一人の子どもも与えられていないのです。彼はもう90歳をとうに越えていました。アブラムは、信頼する僕・エリエゼルに家督を譲ることを決め、自分の夢に区切りをつけようとしていました。
時を経て、ふたたび! 神の声が彼に届きます。「空を見上げ、星を数え、夢に信をおけ!」という声です。普通ならもう無理です。ここからもう一度夢を持つのは過酷なことですし、限界を超えています。
しかし。アブラムは信じたのです。ふたたび夢と約束に生きることにしたのです。5節までの彼の現実と、6節の彼の信仰には明らかに「飛躍」があります。つながらないのです。線が結べないのです。飛び越えられています。でも、信仰とはこうした飛躍のことです。神の業、神の約束への信頼と跳躍です。そして神は、このアブラムの自分への飛躍のことを「義」と呼んだのです。
●6月26日週報巻頭言 吉高 叶