【クリスマスを見つけた!】
救い主がこの世に生まれたことを察知したのは、東方の占星学者たちでした。かねてより「神の約束の書」を勉強してきたユダヤ人たちではなく、異邦人たちによって見いだされ、祝われた、とマタイ福音書は証言します。
彼らは、救い主に会いたい!と発起します。長旅を厭わず、自分にできる最大の献げものをたずさえて進んだのです。その道に「徴の星」は輝き続け、その道が救い主との出会いに通じていたのでした。幼子イエスに出会った彼らは、人生の労苦に宿る祝福と、使命に生きる歓びを知り、さらに新しい道を示されて帰って行ったのでした。この占星学者たちの旅の姿こそが、「善き人生」のメタファー(譬喩)なのです。
他方、救いを求めていても、自分の足下から決して目を上げず、受けることばかり願っていて捧げようとはせず、ほんとうは新しいことが起こる事を恐れていて、決断もできず冒険もしない。それが、ユダヤ人学者たちです。彼らは、クリスマスを見落としました。自分を手放さなければ、開かなければ、見つけられない貴いものが、人生にはあるのです。 ●12月12日 週報巻頭言 吉高 叶
【希望、芽生えて】
クリスマスにこそ祈りたいのは平和のことです。イエス・キリストをお迎えするこの季節にこそ、一人ひとりの心に平和を迎えたいのです。平和とは、受け入れ合うことです。互いに受け入れ合える「和らぎ」の関係です。
この「和らぎ」はどこから生じるかというと、「キリストが私たちを受け入れてくださった」(15:7)ことによります。
それゆえ、「わたしたちも互いに相手を受け入れ」るのです。そして、すべての人が神さまに受け入れられていることを見上げながら、すべての人々が互いに受け入れ合い、和らぐことができるという約束を信じて祈りたいのです。
実際の地上では、いさかいが起こり続けます。受け入れられず、和らげない人間同士の現実がたくさんあります。けれども、見えている事柄から見るばかりでなく、キリストから見ましょう。今という現実から見るばかりでなく、約束から見ましょう。「すべての民が、互いに受け入れ合い、共に喜ぶ。」この希望のために与えられたキリストを迎え、キリストからすべてを見ましょう。
クリスマスにこそ、そのように見ましょう。
●12月5日週報巻頭言 吉高 叶
クリスチャンになる。
何かいいことあるの。
ない。
むしろ、涙と苦労を背負い込む。
他人のために泣き
他人のために苦しみ
他人が泣いてれば、他人が苦しんでいれば
悲しくなる。
そういう心を
そういう生活を
決断することだから。
クリスチャンになる。
何かいいことあるの。
ある。
そのように生きていることそのものが
神さまの祝福。
他人のために涙を流し
他人のために悲しみ
痛むこと。
それそのものが
ほんとうの祝福。
それそのものが
神の国。
それはイエスさまの苦しみの道。
でも、それがイエスさまの永遠。
だから
そのように生きた人は
自分の生涯を全うし、
天に召されるその時
本当に平安に違いない。
すでに神の国を生きてきたのだから。
すでに神の国にいたのだから。
【聖霊と神の子たち】
聖霊の働きは、神さまの御心の働きです。神さまが総ての生命を創造なさったとき、「それを見て、よしとされた」祝福の想いは、今もこの崩れゆく自然世界の中で、傷つけられても傷つけられても働いておられます。
神さまが御子イエス・キリストを捧げ、罪の苦しみと裁きの場から人間を解き放たれた赦しと愛の想いは、今も傲慢さを深める人間世界の中で、嘲られても侮られても働いておられます。
神さまが墓の中より御子をよみがえらせ、生命が決して虚無に閉じこめられず癒しと新生にあずかるのだという希望の知らせと招きとは、今も憎しみと争いが連鎖する歴史世界の中で、忘れられても拒絶されても働いておられます。
聖霊は働いています。祝福しようと。赦そうと。慰めようと。癒そうと。望みを与えようと。聖霊は働いています。自然世界のうめきの中で、人間世界の苦悩の中で、総ての被造物を神の国に招こうと、とりなして、とりなして働いています。
そして、目には見えないこの聖霊の働きを見、この聖霊の働きに連なり、望みを神さまに向けて生きる者たちは<神の子たち>と呼ばれるのです。
●11月28日週報巻頭言 吉高 叶
【無二の土の器】
パウロの端的な人間理解は「あなたがたは神の作品である」(口語訳エヘェソ2:10)という言葉に表されています。人間個々人は、型にはまった「製品」なのではなく、神さまから創られ、この世に命を与えられた無二の存在なのです。
と同時に、「わたしたちはこのような宝を土の器の中に納めています」との言葉が表すように、人間は弱く崩れやすい「土の器」でもあるわけです。「無二の土の器」。このかけがえのなさと弱さ脆さこそが、人間の本質であり、生命存在の尊さだと言えます。
その固有の姿に、それぞれ異なった賜物が与えられています。それら賜物とは、世の人々が言う「能力」のことではなく、神さまの御業の素晴らしさ(宝)を受けとめる「器としての」意味性です。一人ひとりは、この賜物を与えられています。
世の中は、生産性や効率性や貢献度で人を測ることに慣れてしまい、どうやら賜物に気づき、賜物を発見する力を喪っているようです。それはとりもなおさず人間を観る目を喪いつつあることを意味していますし、人が、自分を発見してもらえない世界に生きていることなのです。
しかし私たちは、互いに賜物を発見しあって生きて行きます。それが、教会という交わりの素晴らしさです。
●11月21日 週報巻頭言 吉高 叶