【モーセ、墜ちる】 民数記20:1-13
シナイ山の麓で、「金の子牛事件」を経験し、うち砕かれた民であったはずです。それなのに、イスラエルの民はくり返し不平と疑いの誘惑に晒されていきます。神と民の狭間に立ち続けたモーセも、さすがに疲れ果てていました。「誘惑」は、彼の疲れた魂に襲いかかります。モーセの精神が崩れてしまうのです。
今日の「メリバの水」は、民の不平を描く場面という点では、他の同様の記事と変わりがないように見えます。しかしこの場面では、神がモーセの罪に怒り、その結果としてモーセが約束の地に入れないことを宣言されてしまう箇所なのです。いったい、どこにモーセの罪があったというのでしょうか。
「反逆する者らよ。聞け。この岩からあなたたちのために(わたしが)水を出さねばならないのか。」こう言って、杖を二度、岩に打ちつけるモーセ。このモーセの言葉と行為には、もはや神ではなく自分が民の救い手であり、自分の力を民に誇示しようとする思いが、瞬間的に現れてしまったものでした。怒りと疲れによって傲慢にさらわれてしまう。人間の悲しさと罪深さを物語っています。
●10月2日 週報巻頭言 吉高叶
「偶像」について
人間が、自分の目的(たとえば、願望や不安の解消など)のために神をつくり像を刻む、これが偶像崇拝です。
「像を刻む」とは、まさにイメージを彫りつける行為ですが、単に木や石を彫って造ることだけを意味するのでなく、「枠組みを決めてしまうこと」や「形にして、解るようにしてしまうこと」なのです。このようにして彫りつけられ、設置されて誕生する神がいます。人間は、その神のもとを訪れては頭を垂れます。その頭を礼拝行為はたいへん敬虔で信心深い姿に思えますが、根本的には、神の力の範囲・効能・目的を、人間側が限定づけてしまっている、たいへん不遜な姿だと言えます。私たちが、時に注意を払わねばならないことこそ、敬虔を装った傲慢な宗教心のことです。
このように、神と人間の欲望との関係が逆転現象を起こしてしまうことを、聖書では「罪」と呼んでいます。これが放置されていくとき、「神崇拝」が逆に人間の欲望を達成する装置になってしまい、悲劇の種となります。この御し難い人間の本性をどうすれば良いのか。それが聖書のテーマでもあります。
●9月25日週報巻頭言 吉高 叶
【静まって、主のわざを拝す】
後ろから迫りくる残虐なエジプト軍。行く手を海に阻まれ、絶体絶命の恐怖におののくイスラエルの民。「出発すべきでなかった!」「奴隷の方がましだ!」「戻りたい!」騒ぎ立つしかないおののき。持って行き場のない苛立ち。押さえられない怒り。それらが恨みの飛礫(つぶて)となって、モーセに襲いかかる。
「静まって、主の御業を見よ!」モーセの杖が天を指し、民が天を仰いだとき、あろうことか、海は割れ、乾いた地が現れ、道ができたのだった。
「静まれ!」これこそが、危機の中で聞くべき言葉、なすべき業であった。
3.11東日本大震災から6ヶ月目の節目を迎えた。未だに見つからない遺体。思うように進まない復興。収束できない原発。広がり続ける放射能の影響。「早くなんとかして!」「責任者はだれ!」「どうしてくれるんだ!」「どうなってしまうんだ!」 私たちは、いま、狼狽えている。悲しさと、恐ろしさと、怒りと、焦りとで、騒ぎ立っている。
無理もない。無理もないが、その中で静まろうではないか。神の慰めと、神の御業を求めて、祈ろうではないか。 (出エジプト14章より)
●9月11日週報巻頭言 吉高 叶
【「出発」への出発・ふたたび】出エジプト記3:1-12
エジプトの宮廷で育ったモーセは、常に自分のアイデンティティーに苦しんでいました。エジプトの王子として教育を受けながら、しかし自分の身体にはヘブル人の血が流れているからです。その葛藤が、大変な事件を引き起こしてしまいます。ヘブル人奴隷に対して、あまりに残酷な扱いをするエジプト人を殴り倒し、死なせてしまったのでした。
謀反の罪に問われたモーセは、エジプトを追放され、ミディアンの地に流れ着き、そこで出会った族長の娘と結婚し、イスラエルともエジプトとも無関係な、のどかな人生を送っていきます。
ところが、迷子の羊を探して進入したホレブの山中で、モーセは神の召命を聞くのです。神は、彼に「エジプトで苦しむ民のために、おまえが指導者となって、民族脱出作戦に取り組むように」命じるのでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗るこの神は、父祖たちを「出発する人生」へと招いたように、いま、ふたたび、イスラエルの民全体の「大出発」のために、ミデアンから出発するようにと、モーセにチャレンジするのでした。
●9月4日週報巻頭言 吉高 叶
【新しい背景】 創世記45:1-15
ファラオが見た夢の謎を見事に解き明かしたヨセフは、ファラオの信頼を克ちとり、エジプトの宰相に任じられます。彼は「夢の予言」に従って、7年間の大豊作時代に、経済や流通の手綱を引き締め、国家をあげての備蓄事業に取り組みます。やがて「夢の予言」どおり、未曾有の大凶作・大飢饉が、エジプトのみならず近隣世界を呑み込んでしまいます。
飢餓に貧したあらゆる地域から、たくさんの人々が食料を買い求めて、エジプトを訪れるようになりました。その中に、ヨセフの兄たちがいたのでした。ヨセフのことを疎み、共謀して奴隷商人に売り渡してしまった兄たちでした。恨みと怒り。懐かしさと愛しさ。20数年の時を超え、絡み合いながらこみ上げてきます。
ヨセフは、自分の人生をどのように受けとめたのでしょうか。そして、いま、この「再会」をどう理解し、兄たちに対して、何を語るのでしょうか・・・。
愛する家族から引き離され、独りエジプトで耐え抜き、闘い抜いたヨセフ。彼はいま、自分の人生を動かしてきた神の計画を確信し、深い感動に包まれ、涙を流して兄弟たちとの再会を喜ぶのでした。
●8/28 週報巻頭言 吉高 叶