【「できない」という力】
「ナボトのぶどう畑」の物語は、「十戒」との関連で捉えていくと、いっそう罪や悪の構造がはっきりしてきます。
アハブ王と王妃イゼベル(そもそもこの二人こそ北王国にバアル神殿体制を導入した当事者です)は、隣人ナボトのぶどう畑を欲し、貪(むさぼ)ります。
「神の嗣業を売買することはできません」と断るナボトに対し、「支配者は自分だ」とひらきなおり、神に成り代わって強制収奪します。陰謀をめぐらせてナボトを殺害し、土地を没収するのです(殺しと盗み)。
更に、この世の力に与する巷の有力者たちは、でっちあげの裁判で偽証し、ナボトの殺害に荷担します。このように、「十戒」に並記されている罪や悪は、実は個別のものでなく、人間の生の実態の中でつながっています。
こうした暗黒の中で、ナボトは消されます。しかし炎を灯しています。光を放っています。「神の恵みを忘却し、私物化することは『人間にはできません』」というナボトが貫いた「生の立ち位置」は、この世の闇を撃ち貫く光として、消されることなく輝いています。
●2月13日 週報巻頭言 吉高 叶
【ささやかな流れをこそ】
重病に苦しむ敵国の将軍ナアマンが、藁にもすがる思いでイスラエルの預言者エリシャのところにやってきます。国を超え、宗教を超えてやってくるのです。すごい真剣さ、すごい潔さです。でもエリシャがナアマンに告げたのは、「ヨルダン川に7回身を浸せ」ということでした。ナアマンは激怒してしまいます。ヨルダン川が自国の川に比べて、大きさにおいても清らかさにおいても、見るからに劣っていたからでした。難行・苦行を覚悟して来たナアマンにとって、それは逆に侮辱にうつったのでした。
このような怒りは“人間が神を神秘的で劇的な出来事の中に見いだそうとする”心理を映しています。人間はそういう所に神をはめ込み、難行に挑もうとするのです。
しかし、神の業は、なんでもない小さな事柄を通して私たちに働きかけるのです。問題はアラムの川でもヨルダン川でもありません。神が生きて働いてくださることに信を置くとき、神の御心と業は川のように流れるのです。ささやかな日常に流れる神の愛を見落とさないで生きていきたいと思います。
2月6日週報巻頭言 ●吉高 叶
【あの人は行って行ってしまった】
教育は、まずは教える人と学ぶ人とが向き合うところから始まります。しかし、教える側が意図しないことが、その両者の間で起こり、学ぶ側は、教える側の意図を超えて何かを学び取っていくということが起こります。教育の営みには、いつもそのようなハプニングや、サプライズが満ち満ちています。
また、教育のプロセスでは、教える人と学ぶ人との間に「別れ」が訪れますし、そのときには正しく離れていかなければなりません。師匠に依存し続ける弟子はいつまでたっても半人前ですし、弟子に依存されていることを喜び続けている師匠も教育者の名に値しません。教育のめあては、学ぶ者を独り立ちさせていくことにあります。
そして、教育では、学ぶことと自ら体験することの双方が重要です。自分の手でたずさわり、自分の身体で体験したことだけが、刻み込まれていきます。そのような経験の証しだけが、次に学ぶ人に受け渡すことのできるものなのです。それが継承という名の教育力です。エリヤとエリシャの別れの場面は、教育、自立、継承、を深く問いかけてくれます。
●1/23 週報巻頭言 吉高 叶
【求めよ。探せ。門をたたけ。】
わたしには一つの青年像があります。生きることの意味、人生を襲う不条理、社会に横たわる理不尽。それらにもだえ、苦悩し、「真理はどこにあるのか」「まちがいをどうしたら克服できるのか」と求めている姿です。「青いな」と言われても、「もっと大人になれ」と言われても、ムキになって真理や正義を問題にしている。それゆえに、「聖書をどう読むべきか」と挑み、「教会の在り方はこれでいいのか」と吠える。青年期らしい感受性があり、とがったままむき出しにできるエネルギーもまた青年の賜物です。
やがて人は、人間の営みの一つ一つに固有の事情があることや、表裏が剥がせない善と悪のことや、一言で語り尽くせない生の事実がわかるようになります。だからこそ、真理よりもむしろ愛が人を変えることや、裁きよりも赦しが人を造りあげることを知るようになるのです。
そのような生の深みを知り、また神の慈愛の深さに出会うことができるのも、聖書を傍らに置きながら、求め、探し、門をたたいて生きていくからこそであり、教会という、人々の生の厚みの中に置かれているからこその恵みなのです。
●1月16日 週報巻頭言 吉高 叶
【希望の綱を担いで】
新年明けましておめでとうございます。新しい年も、主イエスの名によって、よろしくお願いいたします。
昨年亡くなられた劇作家・井上ひさしさんの遺した最後の戯曲『組曲虐殺』に、余韻を残す名セリフがあります。
「絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。何か綱のようなものを担いで絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか・・・いや、いないことはない」
希望を持つには、悪いやつ(できごと)が多すぎる・・・。これは現代を生きる私たちの共通の実感でしょう。累積赤字、政治破綻、失業率、就職難、凶悪事件、新種ウィルス。たしかに楽天的に希望を掲げるには難儀すぎます。けれども、翻って「絶望するには、いい人が多すぎる」ことに目を向けたいのです。否、神の恵み、神の御業に目をとめ、イエス・キリストの十字架の愛と復活に重なり、教会の兄弟姉妹との繋がりに与りましょう。
絶望するには、善い交わりが多すぎるではありませんか。そして、私たち教会が「希望の綱を担いで橋渡しできる人」と用いられていきたいと願います。
●1/2週報巻頭言 吉高 叶