【おののきの往路、喜びの復路】
100歳になって、アブラハムはようやく子どもを授かります。神の召命に向かって出発して25年。やっと手にした約束への手がかりでした。イサクと名づけたこの一粒種こそが、彼の「出発する人生」の結実でした。彼はどれほど深くイサクを愛し、イサクに執着したことでしょう。
幸福な日々を引き裂くように、突然、あまりにも過酷な神の挑戦がアブラハムを直撃します。「モリヤの山でイサクを犠牲として捧げよ」と言うのです。彼は、おののきと悶絶の夜を過ごし、暗闇の中で絶望と不条理に苛まれたのでした。
翌朝、アブラハムは出発します。イサクを連れ、薪を積んで。イサクとの幸せな天幕にとどまらず、神の命じる場に出発します。彼は、神への出発、神への飛躍をあくまでも選び取るのです。しかしすでにその時、その道の行き着く所には神の備えと祝福が用意されていたのです。
主の山に備えあり。私たちも、常に自己の結実と執着の場から出発するように招かれています。もし出発しないならば主の備え賜う驚くべき恵みに出会うことも、また、できないのです。
●7月3日週報巻頭言 吉高 叶
【神への飛躍】
神の召命に従って出発してから20年が経ちました。しかしアブラムには、未だに約束の兆候が届けられていません。
「あなたを大いなる国民とする」という約束でしたのに、まだ一人の子どもも与えられていないのです。彼はもう90歳をとうに越えていました。アブラムは、信頼する僕・エリエゼルに家督を譲ることを決め、自分の夢に区切りをつけようとしていました。
時を経て、ふたたび! 神の声が彼に届きます。「空を見上げ、星を数え、夢に信をおけ!」という声です。普通ならもう無理です。ここからもう一度夢を持つのは過酷なことですし、限界を超えています。
しかし。アブラムは信じたのです。ふたたび夢と約束に生きることにしたのです。5節までの彼の現実と、6節の彼の信仰には明らかに「飛躍」があります。つながらないのです。線が結べないのです。飛び越えられています。でも、信仰とはこうした飛躍のことです。神の業、神の約束への信頼と跳躍です。そして神は、このアブラムの自分への飛躍のことを「義」と呼んだのです。
●6月26日週報巻頭言 吉高 叶
【出発する人生への出発】
聖書は私たちに一つの生き方を迫ってきます。それは「断念」することと「出発」することです。自分の喜び、自分のやり方、自分の計画、そうしたものを断念しつつ、神さまの業や隣人の喜びに向かって出発する、そんな生き方です。
聖書の登場人物のすべての人々が、この断念と出発を人生に経験しています。断念することを通して祝福を受け、出発することを通して恩寵を身に受けているのです。
創世記12章からは族長物語といって11章までのいわゆる人類全体を根源的に扱う記述とうって変わって、神の呼びかけを聞いて出発したアブラムという人物にフォーカスがあてられていきます。アブラムの出発は、いわゆる故郷に錦を飾る立志伝でもなければ、次のステージに移る門出でもありません。目的や目標を定めて立ち上がる出発ではなく、神さまと生きる、信じて生きる、という「生き方の変換」のことです。結果、何か偉業を成したかというとそうでもありません。ただ神さまを神さまとし、自分をそのしもべとして生きたということです。彼は出発する人生の出発者です。
●6月19日週報巻頭言 吉高 叶
【求心力と遠心力】
「バベルの塔」の物語を読んで気づかされることですが、たいへん興味深いことに、同一性や均一性による「求心力」に腐心したのは人間なのであって、神さまは逆に「遠心力」によってそれを阻止し、人間の多様性や多元性を良しとされました。考えてみれば、神さまの創造された被造物は実に多様性に満ちています。多様でありながら、互いに生命世界に参与し、影響し合っています。
「バベルの塔」が破壊され、人間が違った言語を持たされ、異なった地域に散らされていったことを、「罰」として消極的に理解するのか、それとも「恵み」として積極的に理解するのか。そこに「人間社会」「人間関係」のイメージの違いがあらわれていくように思います。
人間の歴史を振り返るなら、一つの民族による他の民族支配が画策されるとき、言語や文化の強要が行われたことを私たちは知っています。人間はいつの時代も、同一性による求心力を手にしたいという欲望を持っていて、それが肥大化し「有名になろう(名をあげよう)」とするのです。つまり、神になりかわって支配者になろうとするのです。そこに悲劇が産み出され続けました。同一性を志向することが、逆説的ですが、共に生きる妨げになってしまう。それが人間の深刻なパラドックスです。
多元性、多様性へと遠心力を発揮される神さまの御業は、やはり「恵み」として理解したいと思います。
●6月5日週報巻頭言 吉高 叶
【虹をみるたびに】
「ノアの箱船」の物語のテーマは、つい考えてしまいがちな「審き」や「滅ぼし」にあるのではありません。神の祝福される新しい生命世界への招きこそが真のテーマです。
英語のrainbowに良く示されていますが、虹とは「弓(bow)」のことです。神が、この世界に向けて、(恐らくは懲らしめのために)手にしていた弓を手放し、置いたのです。そして神ご自身が、虹を見るたびに、この世界を慈しみ、憐れむと約束してくださったのです。そんな祝福の世界(弓を手放す世界)に私たちは招かれている。このことをこそ、虹をみるたびに、想起していくべきなのです。
ノアは、まだ雨も降らないうちから、神の声に従って、巨大な箱舟づくりに取り組みます。「今、必要なもの」のためだけにではなく、「やがて必要になるもの」、そして「本来、必要なもの」のために、一見しては徒労と思えることに向かい合うのです。ここにノアの「正しさ」の秘密が隠されているのではないでしょうか。「箱舟をつくる人生」とは、どういう生き方なのか。ノアは、私たちに問いかけてくれています。
●5月29日 週報巻頭言 吉高 叶