【真ん中はキリスト】
弟子たちは、全てを無くして途方に暮れています。燃えるような心、ときめいた日常、わくわくした期待、主イエスと共に歩んだこれまでの全てを失って、弟子たちは家の扉に鍵をかけ、閉じこもっています。もう、ここから何も繋がらない。もう、ここから何も始まらない。
そんな弟子たちのいる部屋に、復活された主イエスが入ってきて、彼らの真ん中に立たれました。「あなたがたに平和があるように(シャローム)」。そう語りかける主イエスの掌には十字架の釘の跡があり、脇腹にはとどめの槍の跡がありました。苦しみ、あえぎ、その中で確かに死んだ主が、よみがえって、真ん中立っているのです。
これは、復活の主と私たち人間の、再生の風景です。そして全てを無くした人々の真ん中に、今も主イエスは立っておられます。避難所の体育館の真ん中に、泥出し現場の真ん中に、主イエス様は立って、身体中に傷を負い、口からは海底の泥と水を吐き出しながら、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃる、よみがえりの主イエス様を、真ん中に見ていきたいと思います。
●7月31日週報巻頭言 吉高 叶
【明日に架ける橋】
今やヤコブは孤独な流浪者です。後悔の念に責め立てられ、展望がみえない不安の中に、毎夜、身を横たえています。
その日も、さすらう中に日が暮れました。今夜も心細い野宿です。彼は適当な石を見つけて枕にしました。堅く冷たい石の枕。それは殺伐とした心中、恐々とした心中を象徴しているかのようです。「祝福にこだわった結果が、この冷たく堅い石の枕なのか。」ヤコブは横たわって泣いたにちがいありません。
しかし、ヤコブはその夜夢をみます。主がヤコブに夢を与えられたのです。地と天とに梯子(はしご)が掛けられている夢でした。夢はこの夜、未来の約束を告げました。「石の枕」という心細い現実と未来の約束との間に、主は橋を架けられたのでした。
不安でみじめな現実。生きる意味を見失いそうになる、そんな心許ない人間の枕もとに、神さまは梯子をおろし、未来の希望と私たちを結んでくださるのです。
避難所の人々の枕元に、避難中の人々の枕元に、希望の梯子が掛けられますように、未来への橋が架けられますようにと祈り続けていきましょう。
●7月24日週報巻頭言 吉高 叶
【祝福・どんでんがえし】
アブラハムの孫たちは双子でした。どちらが兄で弟なのか?便宜的にはどちらかを兄と定めはしますが、どちらも同時に宿った子どもです。すると「長子の権利」「長子の祝福」をどちらが受け継ぐべきなのかもほんとうのことは人間にはわからず、便宜的に定めるしかないのです。
エサウとヤコブは、この曖昧さと人間の便宜の中で宿命づけられます。ヤコブは「弟」と位置づけられてしまった自分の宿命と闘います。父の祝福を受け取ることにこだわり、兄のエサウの隙を狙い続けるのです。一方、「兄」と位置づけられたエサウは、その便宜上の権利に安住し、うっかりその特権を軽んじてしまうのです。ヤコブのこだわり勝ちです。祝福はヤコブの手に渡ってしまいます。
ところが、面白いのはそこからです。祝福を手にしたはずのヤコブの方が、父の家を逃げ出し、寄留者となって生きて行かねばならなくなるのです。どんでん返しのどんでん返し。そうです。長子の祝福とは、土地や財産を受け継ぐことではなく、「出発する人生」を追体験するということだったのでした。
●7月17日 週報巻頭言 吉高 叶
【天を仰ぎ、地を掘り下げる】
アブラハムの息子・イサクの人生。その労苦が「井戸を掘る」という象徴的行為にあらわされています。イサクはアブラハムから遺産だけでなく、夢や約束も引き継ぎました。そして「出発する人生」という生き方まで受け継ぎ、追体験をしていくのです。
カナンには、アブラハムが旅路の節目に掘った井戸が、随所に存在します。けれど、イサクがすんなりとその恩恵に与ることは許されませんでした。イサクもまた、自分自身で場所を見つけ、自らの手で井戸を掘っていくしかないのです。
妨害や横取りに合い、何度も悔し涙を流します。強国に迎合し同化してしまえば、それらの苦労から解放されるのかもしれませんが、イサクはアブラハムのたどった約束の旅路を、独自にたどり続けます。
そのようにして、アブラハムの聞いた約束は、もはや父の夢ではなく、イサク自身の夢となっていくのです。
しかし忘れてならないのは、人間による夢の継承の背後に、神さまの約束は生き続けているという事実です。神さまのビジョンこそが、人と人、世代と世代を繋いでいく真の力なのです。
●7月10日週報巻頭言 吉高 叶