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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-08 17:33:15 (1534 ヒット)

私たちの手。キリストの祈り。
ルカによる福音書9章10−17節

 イエスの言葉に惹かれて大勢の人々が従ってきていました。成人男性だけ数えても、5000人以上もの人々がです。大勢の人々が、心に触れる言葉を求めていたのです。先週は「人々の慰められることを祈り求めていたシメオン」の話しをしましたが、まさに、人生に意味を示してくれる言葉を、不条理な人生に対する慰めの徴を、たくさんの人々が求めていたのでした。そして、そんな多くの人々がナザレのイエスの言葉と業に引き寄せられ、集まってきていたのでした。村里から離れたところに、イエスの言葉を囲む大きな大きな輪ができたのです。
 イエス様の語られる言葉はどんどん深まっていきます。人々は帰ろうとしない。彼の言葉の豊かさに心が根を下ろし、立ち去るべき時を忘れたのです。しかし、やはり、問題が生じて来ました。日が暮れはじめ、群衆は空腹をおぼえ始めます。弟子たちの心は穏やかではなくなっていきました。「このままいけば・・・」そんな心配、嫌な予感が弟子たちの心をいっぱいにしはじめたのです。
 きっと、弟子たち同士の中でひそひそと耳打ち話が始まったのではないでしょうか。
「おい、すっごい盛り上がってるけど、先生いつまで話続けられるんだろう。先生は話しに夢中で気づいておられないのではないか。食事のことを。もうそろそろ、お開きにしないと大変なことになるんじゃないか」「誰か、先生に進言した方がいいんじゃないか」。 きっとそんなひそひそ話をして、弟子たちの何人かが、イエス様のところに近寄りました。そして言ったのです。
「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。」9:12

 ところが、イエスの答えは意外や意外、「えっ」と耳を疑う言葉だったのでした。
「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」(口語訳:あなたがたの手で食物をやりなさい)
 一瞬耳を疑いましたが、主は確かにそのようにおっしゃいました。そう来るとは思ってもいませんでした。「先生、何を言い出すんですか!」
「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」9:13
 そして、そんなお金はどこにもありませんでした。たとえお金があったとしても、それだけの食べ物をいきなり調達できるヨーカドーのような店はどこにもあるはずがありません。どう試算をしても、たとえ逆立ちをしても、無理なことは明らかでした。
「無い」「できない」「無理」。それがどう考えても、誰が考えてもわかる事実でした。彼らが持ち出した証拠は、五つのパンと二匹の魚。それは、「無理」を証明するために彼からが示した証拠でした。
 だから弟子たちは、イエス様からそう言われても、もうあまりにもはっきりしている結論を心の中で繰り返したにちがいありません。「イエス様。潮時です。もう解散させてください」。
 5000人以上の人々をまかなう。今、確かに大切だとはわかっていても、こうした大きな課題に直面するときには、自分の力量と支払わねばならない労苦についての「算段」が前に立ちます。その大きな課題に踏み込んでいくことに対する、とてつもない不安が押しよせます。その時、私たちは誰しもが、「だから、そうなる前に、やめときましょう」と考えます。人間的な算段、経験的な判断からは、「無理」という言葉しか見つかりません。「不可能」という答えしか見えてきません。
 課題に手をつける、問題に手を触れる、テーマに手を尽くす、でもその前に「無理」という答えが身体を金縛りにします。出るのは「ため息」ばかりです。

 主イエス様は、初めから、それと勝負しておられたのでした。
「あなたたちの手で食べ物を与えなさい。」
 主は、弟子たちの手がそこに触れていこうとすること、弟子たちの心がそのことに向けられていくこと、弟子たちの奉仕が、そこで尽くされていくことの、大切さを見つめておられたのです。
「人々が食事を取れるように50人ずつの陣形をつくりなさい」
 途方に暮れる弟子たちの手から、五つのパンと二匹の魚を受け取られると、イエス様は天を仰ぎ、神さまを讃美し、祈り、そのパンを割き、弟子たちに分け与えられ始めたのです。自分の手にそのパンを渡された弟子たちは、グループに分けられた人々のところに出ていって、今度は自分の手で、主がなさったようにそのパンを裂き、渡していったのです。
 するとどうでしょう。その手から分けられていくパンは無くなってしまわなかったのです。主イエスによって祝福されたその食べ物は、分けられ続けました。分けても分けても、まだ分けられたのでした。不思議でした。分けたら減るのではなく、分けたら増えたのです。分かちあったら、届き続けたのです。人の手から人の手へとずっと届いていったのです。
 それは、分け合う前には決して計算できないことでした。分け合い始める前には、ただの五つのパンでした。しかし、天の養いを仰ぎ信じ、どうか私たちを共々に満たしてくださいという祈りがそこに注がれて、養いの天に支えられて、人々が分け合い始めたときに、それは分かたれ続けたのでした。計算を越え、現実を越えた出来事はそのようにして起こったのです。
 その不思議な出来事を自分の手で触れていった弟子たち。彼らの手に、割き続けた感触、分け続けた実感が確かに残されたのでした。実際、彼らは食べきれなかったパンの残りを籠に拾い集めました。12の籠です。12人の弟子たちがひとりひとり集めて回った。そして、みんなが満たされた証、そしてまだ、この恵みが残っているという証(更なる広がりの可能性)を、自分の籠に一杯入れられたというのです。その籠の重さが、確かな実感として、弟子たちの腕に、その肩に残されたのでした。
 この経験は、やがて弟子たちが初代教会を形成していくときの、あるいは世界伝道に出発していくときの確かな実感となり拠り所となっていったと思います。「福音」は分けなければ増えない。「福音」は、人々のところに出ていって、「私が・この手で」割き与えなければ広がらないのだ、ということを。「天の恵みは分け合うもの。」「天の恵みは尽きないもの。」「天の恵みによって生きる私たちは、集まれば集まるほど満たされるのだと。」
 弟子たちの打ちのめされたような「ため息」は、いまや驚きと歓喜へと変えられていました。

 わたしたちは、(この年頭にあって)こうした驚くべき出来事が、私たちの人生にも起こることであり、私たちの教会形成や伝道にも起こることであり、社会や世界の中で引き起こされる出来事なのだとまっすぐに信じたいと思います。そして「信じるべきでないものを排する」ことを学びたいと思います。
 人間的な算段が、ほんとうに正しいのだろうか。
 私たち一人ひとりが小さな存在でしかなく、その持ち物は少なく、力量に貧しい者であるという事実が、だから大きな課題を動かすことができないと信じ結論づけてしまうのは正しいのだろうか。逆に、いくらでもお金があれば、たくさんの人手があるならば、どんな大きな課題でも片づけられる、と信じてしまうことは、本当なのだろうか。人間が考える「できる」とか「無理」とか「大丈夫」とか「不可能」。それを信じてしまって、手を触れる前に決めてしまう硬直と傲慢から、私たちは踏み出していかなければならないのではないでしょうか。
 
 津波で壊滅的な打撃を受けた三陸海岸の漁港の漁師さんたちが、一人また一人と立ち上がっておられます。もう一度、ここで漁をしたい。その願いを捨てられない人たちが声を掛け合っているのです。その漁師さんたちも、みんな船そのものを失っています。港には、氷のための倉庫も、加工工場も、取引市場も何にもありません。おまけに、港に続く海の底には、津波に呑まれた船の残骸、家や車などの瓦礫が沈んでいます。そんな状態では、船がすぐに座礁して、漁に出ることも戻ってくることもできません。途方に暮れる状況です。ゼロからではなくて、大きなマイナスからの出発です。でも、漁港の再建と人生の再生のために一人ひとりの漁師の心と身体が立ち上がっている漁港があるそうです。
 塩をかぶった農地は、再生させるのがほんとうに大変なのだそうです。塩がまじってしまったのは土だけではありません。土だけなら、根気よく塩抜きをし、入れ替えもしていきけます。けれども深刻なのは、地下水が塩水になってしまったのだそうです。いったいどうするのか。それでも農家の人々の中には、土地を捨てないで、また土をよみがえらせるために取り組み始めた人々がたくさんいらっしゃるそうです。
 放射能に汚染された土地の「除染」に必死で取り組んでいる研究者が、先日ラジオでこんなことを言っていました。
「土には包容力がある。土には再生力がある。そして土には教育力がある。必ず、土は生き返る。そして土に生かされる日が、また来る。」
 一人の人の心が立ち上がる。一人の人の手が動き始める。その一人ひとりの手と、自然の再生の力が、組み合わさってよみがえる。もう無理だと思っていた場所が、一つ一つ、またよみがえっていく。
「アフリカの砂漠を緑のオアシスにしたい。」そういって、苗を植え続けている人がいる。砂漠はたった一日で、姿を変えます。何日もかかって苗を植えた場所が、たった一晩の砂嵐で、また何もなかったかのような砂漠に戻っている。それでも苗を植えている財団があります。
 ルワンダで虐殺被害にあった人々は80万人とも100万人とも言われます。その生き残った人々の心の中に、人間に対する絶望と恐怖は癒せないほどに焼き付いてしまっているでしょう。「ツチ」とか「フツ」といった民族の壁は根強くあって、また何かの際に頭をもたげることがあることを知っているでしょう。しかし、そこで、その互いの壁と傷とを乗り越えようと、和解のために、償いのために、一人の犠牲者の家族のための家造りに取り組んでいる働きがあります。
 どの問題にしても、それらの膨大な、とてつもなく大きな仕事のために、いったいどれくらい予算がかかるのか。全体の解決を見渡せば、そのどれもが、100億円でも200億円でもまだ足らないと思える。だれが携われるのか。行政当局ならできるのか。国家ならできるのか。国際機関ならできるのか。
 そうではありません。一人の信仰や信念が立ちあがらなければ、一人の希望がそこに輝かなければ、一人の決意がそこで固まらなければ、一人の手が動き始めなければ、おそらく奇跡をその腕に抱くことは誰にもできないでしょう。

 イエス様は、私たちに「あなたがたの手で、それをし始めてみなさい」とおっしゃいます。と同時に、イエス様は、傍らで私たちの持ち物、私たちという賜物に手をおいて、天を仰ぎ、祈りを捧げてくださっているのです。
 何事も、触れる前にたじろぎ、手を伸ばす前に算段するなら、(何事も!)私たちの身のたけを大きく上回っているようにしか思えないものです。しかし、私たちには、ほんとうに何も無いのでしょうか。あるではありませんか。5つのパンと二匹の魚が。わたし自身が受けた恵み、わたし自身がイエス様を信じているというこの信仰が。そして自分自身の手が。あるではありませんか。イエス・キリストの祈りと祝福が。
 大きな課題、大きなテーマ、その全ての背後に人々の困窮と喘ぎがありましょう。それを憶えつつも、私の手から割き分け与えられていくのは、隣の一人、まず一人への分かちあい。でも、それは広がり、伝わり、大きな恵みとされる時が訪れるのです。必ず、私たちは、この手で触れ、この手を動かして生きた、その「この手」に、いつか籠を抱えているでしょう。思いもしなかった喜びと、まだまだたくさんの人々に分け合うことのできる「恵み」のずっしりとした重みを感じながら、籠を抱えているでしょう。

                                 了
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-07 16:17:02 (1356 ヒット)

             【私たちの手。キリストの祝福。】
 成人の男たちだけ数えても5000人を超えていました。弟子たちは、嫌な予感がしました。自分たちの力量では、この人たちを満たすことなどとうていできない。「そうなる前に、問題を回避しましょう」「この辺で切り上げて、それぞれの自己責任にまかせることにしてはどうでしょうか」。弟子たちは、イエスにそう進言します。現実自体が「無い」「できない」ことを立証していました。算段が成り立たないのです。どだい無理なのです。
 けれども、イエス様は、初めからそれと勝負しておられたのです。そこ(無理)においてこそ、いかに生きるか、神を信じるかを問うておられたのです。
「あなたたちの手で食べ物を与えなさい」。あなたたちの手で! その手が立ちはだかる壁に触れ、その手から恵みが生まれ、その手から他人の手へと広がる。主イエスは、弟子たちの手に神の御業を触れさせ、彼らの算段をうち砕き、経験を刷新していこうとしておられます。
 私たちキリスト者は、確かに小さいすぎる存在です。この世に対して、あまりにも情けない力にしか見えません。けれども、五つのパンと二匹の魚(私自身への恵み)があります。そして「私の手」が確かにここにあります。気づくなら、キリストの祈りが傍らにあるのです。もし私たちが、この手を捧げないのなら、この手が重く喜ばしい籠を抱えることもまた、永遠に無いでしょう
                      ●1月8日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-02 09:20:59 (1583 ヒット)

            【慰めの主を抱きしめて】 ルカ2:22−32
 新年、明けましておめでとうございます。クリスマスに届けられた光は、暗闇を引きずる世にあって、確かに輝いています。東邦の賢者たちを、跪くべき真実の主へと導いていった標の星もまた、見上げるならば私たちの人生の夜空にあって囁いてくれます。
 進んでいきましょう。救い主を見いだした者としての道を。
 今朝は、ローズンゲン『日々の聖句』(栗ヶ沢教会の聖書日課)に導かれて聖書を紐解きます。生まれたばかりの赤子イエスに遭遇して安らぐシメオンの記事です。彼は、救い主を待ち続けて神殿に通う「祈る人」でした。そして、神の民の慰めのために祈り続けてきた「痛む人」でした。老いていましたが、それゆえにこそ、この祈りと業とに人生を絞り込んだ「使命の人」でした。人々の慰めのために救い主を待つ。この祈りのために礼拝を続ける。このシメオンの削ぎ落とされたたたずまいに、私たちは学びたいと思います。
 その弱った腕に「慰めの徴」を抱きしめて、生きてきた全てを感謝できる。シメオンのこのような姿に、人間としての「深い憧れ」を見る想いがします。
                    ●1月1日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-25 18:21:04 (2232 ヒット)

           

祈りの中のクリスマス              2011.12.25
1)絆の中には傷がある
 京都の清水寺で毎年暮れに発表される「今年の一字」。今年は、たくさんの人たちの予想どおり「絆」という一文字でした。東日本大震災という経験を受けて、たくさんの人たちが人間のつながり、絆の大切さを強く感じさせられた、ということに選ばれた理由があります。
 この「絆」というキーワードをくり返し世論の中で用いてきたのは、ご存じ、北九州ホームレス支援機構の理事長で東八幡教会牧師の奥田知志先生です。昔から、野宿生活者やホームレスと呼ばれる人々へのケアーの活動はありましたけれども、彼は日本の中で先がけて「ホームレスの路上からの職場への復帰」「再就職・自立支援」というテーマでこの問題と向かい合ってこられました。ホームレスとは、よく考えれば、ハウスレスのことではない。住む家が無い人のことではない。むしろホームレス。家族の絆を失ってしまった人々だ。だからそのような人々に、ただ衣食住を提供するだけでは、ほんとうの意味で人生を取りもどしていくことにはならない。ホームとなる、人間の絆、人間の交わりをそこに提供し、回復しなければならない。そういって、NPOを立ち上げ東八幡教会と一体となりながら、絆の再生に力を注いでこられたわけです。
 現在、内閣府の参与になられて、今回の大震災直後にも、「絆プロジェクト」を進言し、それが取り入れられて、多少、政府によって違うプロジェクトに変質してしまいましたが、「絆」というキーワードが広がる原動力になってきたキーパーソンでもあります。
 先月、その奥田知志先生と、福岡の西南学院大学で講演会の仕事を一緒にしたときのことです。奥田先生は講演の中でこうおっしゃぃました。「最近、『絆』ということばがやけにはやっています。けれども、何か違うという感想をもっています。絆ということばを用いて人と向かい合おうとするなら、そこには共に生きていこうとするときに受けてしまう、痛みや傷があるものです。「きずな」という言葉には「きず」が含まれています。昨年はやったタイガーマスク現象。無名の人によって養護施設にランドセルが贈られ、それが次々と社会現象のように続いていった。そして美談として取り上げられた。しかし、裏を返せば、その匿名による援助には、『それ以上の深入りはできません』という心理が働いていると思う。つまり関わり合うことによって、こっちに傷を受けてしまうことを避けている行動でもある、ということが言えないだろうか。わたしたちの路上生活者への支援活動は、たとえばお弁当をもって近寄っていけば、目の前で、バカにするな!と投げ捨てられることがある。何週間もかかわってきて、いよいよ生活保護の手続き寸前というところで逃げられてしまうこともある。ふたたびけんかや万引きをして警察に戻ってしまう人もいる。そのたびに、こちらも傷つく。怒りがおこる。そして本人と正面切ってぶつかる。人とほんとうに絆をつくろうとすれば、それはこちらも傷を負い、痛みを味わう、でもそれでも関わっていこうという覚悟が問われるものだ。」そうおっしゃっるのです。

2)クリスマスの傷
 クリスマスが引き起こされている場面を注意深く読んでいくと、神の子イエスを受けとめていくプロセスの中に、大きな痛みと傷があることを知ることができます。マリアがイエスの懐妊を受けとめていくために、同時に覚悟を決めなければならない痛みがあったことはいうまでもありません。ヨセフが、マリアとそのまま結婚することを決心したとき、ヨセフは、自分の感情との折り合いだけではなく、社会的なリスクを背負うことを覚悟しなければなりませんでした。そこには、痛みを予感し、傷を負うことへの決心がどうしても必要だったでしょう。しかし、そこで初めて生まれ始めた新しい「絆」がありました。神と人と人との三角につなげられた「絆」が動き始めたのです。この新しい絆への決心は、ヨセフの祈り、マリアの祈りを通して、受け取ることがようやくできるものとなったのです。
 絆には傷がある。これは奥田さん流の「語呂合わせ」の言葉ですが、わたしは深い関係、本当の関係の中に潜む真理だと思えます。何と言っても、神が私たち人間と、父と子としての絆を結ぶために、神は深い痛みを決断され、具体的な傷を身に受けられたのです。主イエスの十字架は、まさに神の痛みの極地です。理解できない人間たちから、「お前など救い主などではない」、「おまえの神を見せてみろ」と侮辱の極みを浴びせられながら、むち打たれ、茨の冠をかぶせられ、手のひらに釘を打たれて十字架につるされ、脇腹をやりで突かれました。苦い葡萄酒を口にねじ込まれ、つばを吐きかけられました。このような痛みと傷とを自ら負いながら、神が人間に対して求めて下さっていたものは、罪赦され、贖われたものとして神の国に人間を迎えていこうとする「人間との絆」でした。神は絆のために傷を負われたのです。神のくださる「きずな」に「きず」がふくまれていました。

3)クリスマスの祈り
 主イエスは、ゲッセマネの祈りで、その祈りの人生の頂点を迎えます。それはまさに、この「絆のわざ」のためには「この杯」を飲まねばならないのかという闘いでした。救いの絆のために、十字架の痛みはほんとうに必要なのですか、という問いでした。けれども、主イエスは、この絆を真実なものとして成し遂げるためには、その痛み、その傷から逃れられないことを祈りの中で受け取っていかれるのです。覚悟なさるのです。
 主イエスは、しばしば、弟子たちから離れて、一人で祈ったと言われています。その祈りは何だったでしょう。おそらく、人々と関わる中で、人々と関わる中で、それらの人と共に生きるために何がもっとも必要だろうか。そしてそれらの人々との関わりによって身に受ける痛みと傷を、くり返し自分の中で想像し、それを受ける覚悟を決める、そのような祈りがなされていたのではないでしょうか。
 クリスマスから始まる、神の救いのできごとには、神の痛みへの決断、ヨセフやマリアの痛みへの献身、そしてキリストご自身の苦しみへの覚悟が、祈りの中でつながっていくのです。
 祈りは、誰もが知っています。祈りは、みんなが捧げます。しかし、わたしたちがクリスマスに、そして年末年始に教えられる祈りとは、このような「クリスマス」の背後にあった、「絆への祈り」のことではないでしょうか。
 そして、東日本大震災という未曾有の出来事を経験した私たちが、なすべき祈りもまた、そこで捧げられていくべき祈りもまた、痛みへの共感の祈りであり、つながりや絆を結べるだろうかという不安の祈りであり、結ぼうとしたときに私たちに求められる痛みがあるとしたら、それは何だろうかという問答の祈りです。そしてわたしは、そこでわたしに担えるだけの、傷を負うことができるだろうか、悩みの祈りです。しかし祈るものは、それを問うものなのです。そして、絆づくりに心を開こうとするものにとって、大仰ではないけれどもできるだけのつながりをつくりたいと願うものにとって、何よりも必要な業こそが、祈りであります。
 
4)キャンドルはしるし
 クリスマスには、やっぱりキャンドルサービスが似合います。昨晩は、電灯をつけた中での音楽礼拝でしたから、今日は、朝なのに暗幕まで張って、礼拝堂を暗くして、一人ひとりがキャンドルを手にして燭火礼拝を捧げています。これは、何もクリスマスらしい雰囲気を味わいたいからではありません。人の顔がよく見えるために、文字がはっきりと読めるためにローソクの火を持つのでもありません。それならば、はじめから電灯をつけた方がいいのです。そうではなく、このキャンドルは、私たち一人ひとりが、イエスさまという存在をこの身に受けとめようとしていることの「しるし」だからです。そして、わたしという存在の意味性も、このキャンドルの光から学ぶための「しるし」だからです。
 キャンドルの光は、飼い葉桶に生まれたイエス・キリストの「しるし」です。もっと暗ければはっきりわかると思いますが、薄暗い中でも、キャンドルの炎が周囲の闇の方に光を放射しているのがわかるでしょう。
 イエス・キリストがこの世に来られ、寝かされた場所は、暗く貧しい飼い葉桶でしたが、その小さな低みの極みである飼い葉桶から放射した光は、「柔和」「優しさ」そして「希望」の光でした。でもそれこそが、いま、世界がほんとうに必要としている力ではないでしょうか。「柔和」は、あらゆる憎しみと暴力への答えとして。「優しさ」は、人間が思いやりや共感する心や慈愛を失いつつあることへの答えとして。「希望」は、孤独のまま捨て置かれる人や、人生への意味を見いだせない人たちへの答えとして。その光は、大きなひかりではありません。それを手にした人に届く光です。照らされているのは、わたしなのです。クリスマスの光は、何を隠そう、このわたしへのコンタクトなのです。

5)キャンドルには芯がある
 ちいさなキャンドルです。それでも、これが光である以上、暗闇に対しては決定的に勝利しています。どんなに小さな光でも、暗闇がそれを呑み込むことはできず、むしろキャンドルの光を動かせば、切り裂かれていくのは闇の方です。一挙に全体を明るくするような光ではなく、(人間はそれにあこがれますが、そういう光ではないところが意味深い)光がわたしにコンタクトし、そのわたしがこの光を持ち運ぶところが照らされていく。そういう光を手にして生きる、それが、人が信仰をもって生きていく実際的な姿を現しているのではないでしょうか。キャンドルを見てください。一人ひとりのキャンドルには「芯」があります。このキャンドルの炎には「芯」がある。でも、礼拝時間も進みましたから、その芯がずいぶん短くなりましたね。わたしは、この芯にキリストが重なります。自らの命を捧げ、削り、身を溶かしながら、全ての人々に、生きるに必要な信仰と望みと愛の力を放射した、主イエスの生涯。それが新しい命の光の「芯」です。
 私たちも、しばしば愛を語ります。しばしば平和を語ります。そして希望を口にします。でも、その愛に「芯」はあるか、と問われたら、わたしたち自身が、光の芯ではとうていありえません。わたしたちではない。わたしたちの何かの力が、平和の芯なのではないのです。それらの「芯」は、イエス・キリスト。私たちは、私たちの内に、「芯」を迎え入れ、私が溶かされ用いられながら、真の光の放射へと奉仕することを、求めていきたいと思います。
 この小さな芯は、時を経て燃え尽きます。主イエスもそうでした。しかし、主イエスは、そのすべての祈りと痛みと傷とを受け、ご自身を燃やし、ご自身を溶かし、与え捧げられたのち、三日後に復活をなさいます。そして、もはや消え去ることのない、信仰と希望と愛の芯となられて、信じるわたしたちの永遠の光の源となられました。
 クリスマスと十字架と復活。イエス・キリストは、光であるために生まれ、光であるために傷つき、光となって永遠を生きておられます。

6)祈りは光のわざ
 小さくて良い。でもこのキャンドルの光のように生きる。光を受け、光を返して生きる。そのための道は、祈りにあります。ヨセフが、マリアが、主イエスが、祈りを通して光を灯し続けたように、わたしたちも祈りの中で、人々の悲しみをわかろうとし、それを突き破る喜びを願おうとし、もし自分にできることならば、と(祈りの中で)求めさせられていくのです。人が、繋がろうとするとき、イエス・キリストの傷の絆に支えられるのです。その絆は、日々の祈りによって確かにされるのです。
 この祈りが、祈り続けるわたしが、きっと、わたしを必要としてくださる誰かとの絆へとわたしを導いてくれるでしょう。
                      


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-19 18:18:24 (1476 ヒット)

             随想・クリスマスイブ
 小学生のとき、クリスマス・イブが怖かった。終業式が必ず12月24日で、通知表を渡される日だったから。1〜5までの数字が並んでいる欄もぞっとするが宿題をしていかなかった回数、ふざけて廊下に立たされた回数なども書かれていて、そちらの方がずっとヤバかった。
 けれど、クリスマス・イブは、ほんとうは大好きだった。イブ礼拝が終わると、みんなでキャロリングに出かけた。日赤病院の中庭で讃美歌を歌うと、真っ暗だった病棟の窓に次々と電灯が灯り、中から患者のみなさんが顔を出して聞いてくださった。最後にメリー・クリスマス!と叫ぶと、一斉にメリー・クリスマス!!という声が病院の中庭に響いた。とてもいい気持ちだった。それから信者さん宅を転々とし、歌っては上がり込んでお茶菓子をいただき、また次の家へと歌って廻った。終点は小森家(代表役員)と決まっていて、そこではおにぎりや豚汁が出た。小森を出る頃には、夜中の12時をとうに過ぎていた。そんなことが許されるイブが好きだったし、温かかった。
 そして、夜中に帰宅したぼくを、毎年待っていたのは、通知表を手にして、冷気を漂わせる母親だった。
             ●12月18日週報巻頭言 吉高 叶


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