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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-07 17:35:28 (1534 ヒット)

         悲しみからの方向転換 ルカ福音書23:55-24:12
 金曜日。目の前に起こった信じられない出来事。慕わしい主イエスが、酷たらしく殺されてしまったのだ。茫然としながらも、女たちはイエスの亡骸の後をついていき、墓に納められたのを見届けて帰った。安息日が始まりかけていた。
 土曜日。彼女たちは安息日を嘆きと悲しみの中で過ごした。望みといえば、一刻も早く亡骸にとり縋って泣きたい、そのことであった。御遺体を清める香料と香油を整えながら、嘆きとおした。
 三日目の朝。夜明けを待たずに、女たちは墓に急いだ。主イエスに会うために墓に行かねばならなくなるとは…。激烈な悲しみと滂沱の涙に向かって急いでいる自分たちの、なんという哀れ。しかし心から会いたいただ一人の人は墓の中。これからも…。人生に希望を与えてくださったあの方を、これからも墓の中に求めていくしかない。確かに受けとった愛と希望を、これからは過去の想い出の中に探していかねばならない。
 しかし、駆けつけた墓では、女たちのそれらすべてが打ち破られてしまっていた。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
     4月8日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-31 21:04:00 (1551 ヒット)

         【イェスよ、思い出してください】ルカ福音書23:32−49
 釘を打たれたのは掌だろうか、手首だろうか。木に打ち付けられ、そのまま垂直に立てられた時、自身の体重がすべてそこに掛かって、およそ人間が堪えられない激痛が全身を駆け巡るという。
 激痛による痙攣と出血による朦朧、その肉体的な極限状態の中で、最後まで、十字架の主イエスは、人間が背負えない重荷を見ていた。赦されることでしか降ろせない人間の重荷を見ていた。それが「罪」だ。そして、主イエスは、罪の審きの厳しい責め苦の中に残られたのだ。決して十字架を降りずに。そして祈った。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 十字架は、神の義と神の愛がぶつかり、神の御子の苦悩の祈りによって、愛と赦しが実現していく場所である。
 自分で自分がわからない罪人。自分で荷を背負いきれず、また降ろせない弱き者。背負われ、担われ、祈られ、赦されてしか生きていけない自分。それが私たちの偽らざる出発点。だから、私たちはいつもこう祈りながら生きるのだ。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください」。
                     ●4月1日 週報巻頭言  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-23 22:14:50 (1542 ヒット)

                                  【いつも、心に、問いかけを】
 受難節を過ごしています。昨年の受難節は東日本大震災の衝撃と悲しみが重なりました。それゆえに、十字架を背負うて苦しみ抜かれる主イエスにすがり、極限状況の中を共にいてくださるキリストに慰めを求めたことを想い出します。人間の生に迫りくる「不条理」に答えを失い、戸惑いながら、それでも御言葉に聞こうとして共に歩んだ私たちの2011年度でした。心から感謝いたします。
 今回の経験でも強く感じさせられましたが、人間には出せない答えというものがあります。人は、神(や宗教や信仰)に答えを求めようとしますし、それがあたり前だと思い込んでいます。しかし、聖書の出来事をよく読むと、人間の問いに
神が答えているのではなく、神の問いかけの中を人間が生きているのだ、ということがわかるのです。
 人間が“手に入れた”と思った答えが消えてしまうことがおうおうにしてあります。大切なのは、よい答えを手にすることではなく、よい問いを手にして生きることです。キリストは私たちと共にいて、どのような時にも、生きるためのよい問いかけをくださるのです。
                                                                 ●3月25日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-17 14:53:58 (1487 ヒット)

     【イエスの御名によって一つ】使徒言行録4:32−5:6
 結局のところ、キリスト者のあらゆる行為をキリスト者の行為たらしめるものは「イエスの御名によって」為すかどうかであろう。楽しいから集まる。好きだからやる。ためになるから学ぶ。理に適っているから認める。責任があるから担う。必要だから献げる。それならば、世の中の誰もがやっていることだ。
 しかしキリスト者は「イエスの御名によって」生きる。イエスの御名によって楽しくなくても集まり、嫌いなことをやる。自分の思いとは違うことでもイエスの御名によって受け止めるし、迫害する者のために祈る。私たちが、祈りの最後に必ず「主イエスの御名によって、アーメン」と祈るのは、あらゆる人間的な動機や感情をいったん手放して、ただ主の御心の成就を拝するからだ。
 初代教会が、こんなに一つ思いになって集まり、必要を満たしあい、過不足なく生きていたことを、人間的な思いやりの問題や、人々が受けた感動(や感情)の問題にしてしまうのでなく、「主イエスの御名によって生きる」と決断した人々の信仰の問題として受け止めていくべきではないだろうか。
 ●3月18日 週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-09 13:17:07 (1377 ヒット)

         【生命を立たせてください】使徒言行録3:1−10
 エルサレム神殿の参道の門(「美しの門」)に、毎日運ばれてきては置かれている男がいた。生まれつき歩けない男で巡礼者たちから施しを受けることを生業にしていたのだった。生業とは妙だが、それが「不運」なこの男の処し方だったし、家族にとっても都合が良かった。そこにあったのは「願望の封印」と「不運の逆利用」だった。人間は、時と場合によっては、そのような諦めと開き直りで生きるしかなくなることがある。
 人々はというと、そのような者の傍らを見ぬふりをして通り過ぎるようになるし、あるいは、わずかな金銭を投げ入れて、関わり合うことの代償にするのだ。「美しの門」は、人が行き交いながら、ふれあうことの無い交差点だった。
 東日本大震災から1年。人間の中に次第に起こっていく辛く淋しい有様を、この「美しの門」が、映してはいまいか。
 ペトロとヨハネは、この男をじっと見た。彼の封印された願望の奥底を、慈しむように深く見て呼びかけた。「金銀ではない。あなたを生かすのはイエス・キリストの名。あなたに本当に必要なのは神に愛されている証と、この世に生を受けたことを喜ぶ魂の炎である。」
 ●3月11日 週報巻頭言 吉高 叶


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