【「出発」への出発・ふたたび】出エジプト記3:1-12
エジプトの宮廷で育ったモーセは、常に自分のアイデンティティーに苦しんでいました。エジプトの王子として教育を受けながら、しかし自分の身体にはヘブル人の血が流れているからです。その葛藤が、大変な事件を引き起こしてしまいます。ヘブル人奴隷に対して、あまりに残酷な扱いをするエジプト人を殴り倒し、死なせてしまったのでした。
謀反の罪に問われたモーセは、エジプトを追放され、ミディアンの地に流れ着き、そこで出会った族長の娘と結婚し、イスラエルともエジプトとも無関係な、のどかな人生を送っていきます。
ところが、迷子の羊を探して進入したホレブの山中で、モーセは神の召命を聞くのです。神は、彼に「エジプトで苦しむ民のために、おまえが指導者となって、民族脱出作戦に取り組むように」命じるのでした。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗るこの神は、父祖たちを「出発する人生」へと招いたように、いま、ふたたび、イスラエルの民全体の「大出発」のために、ミデアンから出発するようにと、モーセにチャレンジするのでした。
●9月4日週報巻頭言 吉高 叶
【新しい背景】 創世記45:1-15
ファラオが見た夢の謎を見事に解き明かしたヨセフは、ファラオの信頼を克ちとり、エジプトの宰相に任じられます。彼は「夢の予言」に従って、7年間の大豊作時代に、経済や流通の手綱を引き締め、国家をあげての備蓄事業に取り組みます。やがて「夢の予言」どおり、未曾有の大凶作・大飢饉が、エジプトのみならず近隣世界を呑み込んでしまいます。
飢餓に貧したあらゆる地域から、たくさんの人々が食料を買い求めて、エジプトを訪れるようになりました。その中に、ヨセフの兄たちがいたのでした。ヨセフのことを疎み、共謀して奴隷商人に売り渡してしまった兄たちでした。恨みと怒り。懐かしさと愛しさ。20数年の時を超え、絡み合いながらこみ上げてきます。
ヨセフは、自分の人生をどのように受けとめたのでしょうか。そして、いま、この「再会」をどう理解し、兄たちに対して、何を語るのでしょうか・・・。
愛する家族から引き離され、独りエジプトで耐え抜き、闘い抜いたヨセフ。彼はいま、自分の人生を動かしてきた神の計画を確信し、深い感動に包まれ、涙を流して兄弟たちとの再会を喜ぶのでした。
●8/28 週報巻頭言 吉高 叶
【最善の備え】
エジプトの王(ファラオ)は、古代世界において人間の知恵と力を総結集できる権力者です。しかし、そのファラオが、不安に怯え途方に暮れています。彼を悩ませていたのはひとつの夢でした。それは、神がファラオに与えた予言でした。
不運な成りゆきでエジプトに奴隷として売られ、そのうえ獄につながれていたヨセフが、ひょんなことからファラオの前に連れ出され、見事に夢解きをしてのけます。彼は臆することなく、媚びることなく、エジプトとファラオの慢心を戒め、世界に対する大国の使命を伝えます。明快で威厳に満ちた夢解きの前に、王は頭を垂れ、ヨセフの言葉に基づき施政を転じます。やがて全世界を襲った大干ばつ・大飢饉に予め備えることができたエジプトは、自国民のみならず世界の人々を餓死から救い出したのでした。
この世の王(知恵と力)は、常に己れの力を過信し、現在の繁栄に溺れてしまうものです。しかし、想定できない未来、計り知れない神の業の前に、人間は実に無力なのです。解き明かされるべきもの、耳を傾けるべきものは神の夢(言)です。神の夢を受けとめ、神の言を聞き続けていること、それこそが、人間の最善の備えなのです。
●8月21日週報巻頭言 吉高 叶
2011年平和祈念礼拝(8/14)
光の中で痛み、悼む
たとえば、1945年の、東京大空襲、沖縄戦、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下。これらの出来事は、今なお、「戦争がどれほど悲惨なものか」を語り継ぐ象徴的な出来事です。しかし、66年前の戦争末期のこの年には、全国のありとあらゆる都市と町々で空襲の被害に見舞われました。脇田さんが動員されていた和歌山の空襲・爆撃の話しを先ほど伺いました。そして、今回、東日本大震災で被災した太平洋岸地域でも、宮古、山田、釜石、仙台、いわきの平市でも、大規模な空襲や艦砲射撃、機銃掃射による襲撃を受け、甚大な被害が出ています。特に、7月10日に仙台を襲った大空襲は、仙台市を焼け野原にしてしまう大規模なものでした。真夜中に2時間以上にわたって1万3000発の焼夷弾(落下と同時に中からガソリンが吹き出る爆弾ですが)が落とされ、たくさんの家屋が焼き払われ、多くの人々が亡くなり、負傷しました。
昨年、その「仙台戦災犠牲者追悼集会」の後、仙台空襲による犠牲者慰霊碑の前でインタビューに答えている女性の言葉をテレビのニュースで見、その言葉をおぼえています。「私はね、仙台空襲で母親と4人の兄妹を亡くしたんです。妹たちがほんとうにかわいそうです。遺体も見つからなかったんです。わたしも80歳になりました。最近になって、やっと泣かないで話しができるようになりました。あんな戦争を二度と起こしてはいけないと思うから、語らなきゃいけないと思うようにやっとなりました。」
仙台をはじめ、東北地方には、そのように、あの戦争で大切な家族・兄妹を失いながら、涙をながさずには思い出せない辛さをかみしめて、66年間を過ごして、今日を迎えた方々がたくさん生きておられるのですね。「やっと涙を流さないで語れるようになった」という、そんな、かの地の高齢の戦争体験者たちが、いままた、ふたたび、まるで戦後の焼け野原のようになってしまった大地に佇んでいます。人生の中で、「焦土の町」と、「瓦礫の町」に二度も立ちつくさねばならなくなろうとは・・・。ふたたび、愛する家族・肉親を一瞬にして失わねばならなくなってしまうとは・・・。そんなあまりにもむごい悲しみが、いま、懸命に生きてこられたご高齢の方々の人生に襲いかかっています。これまでの66年の歳月。復興を遂げ発展しても、孫たちや曾孫たちが生まれても、それでも消えることのなかった悲しみでした。そのように「命のつながり」というものには、決して簡単ではない重みがあります。命のつながりには簡単にはいかない悲しみがあります。だから、命は重く、命は切なく、命は悲しく、命は尊いのです。
今回の震災や大津波のように、人間の常識も備えも力も、まったく歯が立たないような自然の驚異にさらされることが、わたしたちにはあります。それが「人間を超越した世界の中で命を営む」ということの厳しくもあり、どうにもならない事実です。しかし、そのような厳しさの中に生きるしかないからこそ、わたしたちは、人為的な行為によって人が死んでいくようなあらゆる道から遠ざかる努力、人間の欲望の結果、たくさんの人が死んでしまうような有様に「否」を言い続けたいと思います。科学も医学も教育も、人が生きること、人の命を守ることに徹底して仕えなければなりませんし、また人間を超越する力のもとで、徹底的に謙遜でなければならないのです。
戦争は、自然災害ではありません。戦争は人為的な、そして人間の傲慢がなせる大量殺戮です。なぜ、あの戦争が起こってしまったか。なぜ、あの戦争を止めることができなかったのか。その検証を止めてしまってはならないのです。人が、止めることができるにもかかわらず始めてしまう、そんな愚かな戦争によって、人間の悲しみや呻きが50年も60年も、100年も癒されないような、こうした経験を、これ以上人類の中に刻み込んではならないのです。
戦後66年を経て、ふたたび根こそぎなぎ払われてしまった大地に立ちながら、またもや命のつながりを断たれ、この世の地獄へと揺り戻された高齢者たちの絶望に思いをいたし、わたしたちは、それらの人々の前で、そしてこれからの未来の前で「三つの約束」をしたいと思いますし、それを祈りたいと思うのです。
第一のことは、あまりの打撃に途方に暮れてしまう、これら瓦礫の中から、もう一度、立ち上がり、この震災と津波が問いかけてくることをしっかりと受けとめた社会をつくっていくことです。
第二のことは、だからこそ、あまりにも空しい戦争は、二度と、決して起こさないことを心に刻むことです。二度と空爆の危険にさらされることも、また他の国の町を空爆の危険にさらすことも、けっして無いようにすること、です。
そして三番目に、戦争の犠牲者たちの命とも、震災の犠牲者たちの命とも、わたしたちは繋がっていることを決して忘れず、悼み続けていくことを約束することです。失われた人々一人ひとりの人生を大事にしなくなるような復興をしないことです。
今朝の週報には、辺見庸さんが、最近発表なさった詩の一節を掲載させていただきました。朗読してみたいと思います。
『死者に言葉をあてがえ』 詩 辺見 庸
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの歌をあてがえ
死者の口びる ひとつひとつに
他とことなる
それだけしかないことばを吸わせよ
類化しない 統(す)べない
彼や彼女だけの言葉を
百年かけて 海とその影から掬(すく)え
砂いっぱいの死者に どうかことばをあてがえ
水いっぱいの死者は
それまでどうか 眠りに落ちるな
石いっぱいの死者は
それまでどうか語れ
夜更けの浜辺に仰向いて
わたしの死者よ どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畦唐菜(あぜとうな)は まだ悼(いた)むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなる それだけの
ふさわしいことばが
あてがわれるまで
この詩は、死者の生と死、その一人一人の無念や、苦しみを、きちんと聴きとっていこうと訴えています。と同時に、たとえば、「これらの犠牲者たちの死に報いるために」とか、戦後繰り返し言われたような「戦争犠牲者たちのおかげで今日の日本の発展があった」というような、「何かのための死」という風に塊にしたり、簡単に一般化しない、まさに犠牲者たちの死を利用しないで、死者を記憶し悼んでいくことを呼びかけています。わたしたちは、これまで、戦争犠牲者をどのような態度で悼んでこれたでしょうか。そしてこれから、震災犠牲者たちをどのような態度で記憶し、どのように悼んでいくべきでしょうか。それは大切な問いかけです。今回の被災者支援でもたくさん齟齬が起きてきていますが、「被災地」や「被災者」を類型化したり、特殊化して、特別な出来事として考えてしまう感覚や生活態度と、わたしたちはどのように闘っていくかが問われています。それは過去の戦争の犠牲者、原爆の被害者を、何十万人という塊でとらえてしまうようになったり、イラクやアフガンの爆撃や戦闘で死んでいく人々のことを、どうも想像できなくなっているわたしたちの感覚と、自分なりにどう闘っていくか、ということともつながります。そのときに大切なことは、「わたしだったかもしれない」という気持ちや、「この一つ一つの死はわたしとつながっている」という気持ちです。
これだけ同時的に人々が死と苦しみに見舞われたとき、わたしたちはつい類型化してしまいそうになります。政治も経済も画一化的な復興をイメージしてしまいがちです。人々の言葉もたとえば「がんばれニッポン」という風に統一的になっていきます。そのとき、人間は実は人間にとっての「救いのイメージ」を見失いつつあるのです。何より被災者たちが、救いとは何のことなのかを見失ってしまうのです。みんなはいったい何を救おうとしているのだろう。誰を救おうとしているのだろう。「わたしを救おうとしてくれているのか、社会システムを救おうとしているのか」「被災した人間を救いたいのか、日本経済を活発にしたいのか」「人間を救うのか、国を救うのか」。このことが、わからなくなってしまうのです。
きっと、いま故郷を追われて避難している人たちや、避難所や仮設住宅で耐え忍んでいる人たちは、聞きたがっているのです。「あなたを支えたいと思っています。あなたが救われていくのでなければ、『もしかしたらわたしだったかも知れない』このわたしも、救われていかないことになるのです。あなたを支えたい。わたしが意味ある場に生きるために。あなたの救いは、わたしの救いです。」このような言葉を聞きたがっているのではないでしょうか。
実は、すでに13年間も自殺者が3万人を下回ることのないこの社会こそが、「この社会は、いったい誰を支えたいのか、誰を救いたい社会なのか」が、死んでいった一人一人にイメージできない社会、響かない社会になってしまってきたということかも知れません。わたしは名前を呼ばれない。誰も私を呼んでくれない。そんな社会をまた復興しても仕方がないのです。
さきほど紹介した、仙台大空襲のことを記憶するために、仙台市戦災復興記念館がつくられています。その記念館の一室に、空襲の犠牲者たちの名前と亡くなったときの年齢を銅板に彫り込んで、手で触れるようになっている部屋があります。その銅板の制作者・瀬川満夫さんは、「どうして名前を彫ろうと考えられたのですか」というインタビューに対して、銅板をなぜながら次のように語っておられたのが印象的でした。
「わたしは、たまたまあの時生き残れたんだ。この人たちの命。ほら、あぁ2歳、あぁ3歳、ほら7歳。この人たちの、2年、3年・・・、産まれて生きてきたという証。やっぱり名前遺すしかないと思ってね。東京からきたおじいちゃんがね、この銅板をなぜて、おい、会いに来たぞって、言ってるんですよ。」名を刻む。沖縄の平和の礎に、ヒロシマ、ナガサキに、名を刻む。そこにわたしたちのイメージしている平和の中味があるのです。国の平和、社会の発展、それらよりも以前に、一人一人の生命と存在を確固たるものとする、という平和の基本的な中味です。
とはいえ、わたしたちの名を刻む、名を憶えるという業は、あまりにも小さく、もしかしたら独りよがりのものでしかないのかもしれません。すべての人の名を刻むことが、わたしたちにはできないのです。しかし、ただこの全ての命をお造りになった神だけが、その全ての名をご存じであり、また、その全ての命の引き受け手であります。その神は、生かされた命が、一人も損なわれることがないようにと、一人子イエス・キリストをわたしたちにくださった神、一人一人の名を呼んで愛してくださる神です。さらに、この神さまは終末の主であられます。そしてわたしたちにとって悲劇的な地上の出来事も、途方に暮れる地上の出来事も、その最終的な意味やそれらがやがてどのように締めくくられていくのかも、わたしたちには、まだ隠されているのです。こうして、今を生きるわたしたち一人一人の人生も命だって、不条理と想定不可能な人生でしかありません。わたしたちは、その全てをご存じであり、またそれら全ての意味を、最終的に明らかにしてくださる神の前に、これら犠牲者一人一人の命と死を委ねて、「神よ、どうかおぼえてください」「神よ、どうか名を呼び、慈しんでください」と祈りつづけたいと思います。
と同時に、だからこそ、今を生きる、いいえ、生かされて、今を生きているこの私を、どうか十分に生きることができる者としてください、と祈りたいのです。
十分に生きる。人が人として、十分に生きることができる。その極めて素朴な願いに立って平和を祈り、わたしたちは、それをそうはさせないものどもと、できる限り闘っていきたいと思うのです。
最後に、イザヤ書54章の10節を朗読して終わります。
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
あなたを憐れむ主は言われる。」
了
【しがみつく信仰】
辛抱につぐ辛抱。叔父ラバンのもとでヤコブは20年がんばります。逆境を逆手にとって、自分の家族と家畜とを増やしていきます。ラバンの娘たちを妻にしましたから、このまま更に辛抱すれば、やがては族長になれるかもしれません。
けれども、ヤコブの心を捕らえ続けているのは、父イサクの祝福です。そして石の枕の夢で聴いた「あなたを必ず連れ帰る」という神の約束です。祝福とは、ハランで安定することではない。ハランから、神の約束に向かって出発することだ。ヤコブは意を決して、かつて父母や兄と暮らしたカナン地方へと旅立つことにしたのでした。
ただ、どうにも気がかりなのが、兄エサウの自分への憎悪のことです。かつて長子の祝福を横取りした自分を、兄は赦してくれるだろうか。受け入れてくれるだろうか。それを思うと、どうにも二の足を踏み、歩みが進まないのです。
その夜、ヤコブは神の使いと格闘します。ヤコブはくらいつきます。「帰らせてくれ! 赦しを与えてくれ!」しがみつき、がむしゃらに願うのです。
そんな闘いの闇夜に、次第に陽が昇ります。嬉しいことに、祝福と赦しの新しい朝が彼を迎えてくれたのです。
●8月7日週報巻頭言 吉高 叶