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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-26 16:40:08 (1548 ヒット)

2012.2.26
主がお入り用なのです
ルカ福音書19:28−40

 イエス様と弟子たちは、ガリラヤからの旅を続け、ついにエルサレムに入場しようとしています。エルサレムに入場するとは、「いよいよ目的の観光地に着きました」というようなものではありません。日本の戦国時代風に言いますと、「上洛する」、上杉謙信が上洛を断念したとか、武田信玄が上洛しようとしたとか、織田信長公ついに上洛!とか、ようするに「天下人」として名を示すことを意味しています。
 ルカ19:11に次のように様子が記されています。
エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
 弟子たちや、イエスを取り巻いていた人々は、イエス様がまもなく、エルサレムに上られ、この不思議な力となみなみならない権威ある言葉とで、ローマ支配を払拭し、神の国、つまりはユダヤの独立新国家を建て上げられることを信じていたのです。1000年前のダビデ王時代に、独立統一民族国家として繁栄をしたっきり、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、マケドニア、そしてローマという列強大国の植民地として甘んじてきながら、不屈の精神と律法に基づく信仰習慣によってかろうじてユダヤ選民であることを守ってきたユダヤ人たち。だからこそ、いつかメシアがあらわれて、こうした強国の属国状態からユダヤを解放し、神の民の国、ダビデ王国の再興、すなわち神の国の建設を成し遂げられる日がくる、このことを夢見てきたわけです。そしてナザレのイエスの登場。多くの民は、この不思議な力のイエスに「その人だ」という期待をかけていたのです。
 そんな「その人」がいよいよエルサレムに入られる日が迫っています。弟子たちも、気合いの入った民衆たちも、みんなだんだんテンションが高くなってきているのです。

 エルサレムの郊外にオリーブ山があります。丘のような山です。この山を越えるといよいよエルサレムの城壁です。この山の麓のベトファゲ村に近づいたとき、主イエスは二人の弟子を先に遣わせて、仔ろばを用意しておくように命じられました。そうです。イエス様は、その仔ろばに乗ってエルサレムに入場なさろうとしています。一世一代の「上洛」の晴れ舞台、人々に自分のリーダーとしての風格と威厳を示すためになら、もっとふさわしい舞台装置があったでしょう。実際、これまでエルサレムに乗り込んできた代々のローマ総督たちは、自分の威厳を誇示するために、美しくみごとな軍馬にまたがったり、漆黒の馬四頭つなぎの戦車に乗ったりして入場したのです。
 けれどイエス様が選ばれたのは、仔ろばでした。威厳の印ではありません。戦いや力の印ではありません。君臨の印ではありません。貧しさの印です。庶民の印。そして労働の印、仕えて生きる奉仕者の印。それが仔ろばでありました。主イエスは、そのような仔ろばをこそ、「主がお入り用なのです」と言って借り受けておくように弟子たちに命じられたのでした。きっと弟子たちの心の中に、意外な気持ちが残ったのではないでしょうか。「先生は不思議なものを必要となさるのだなあ。なぜそんなものを」と・・・。

 イエス様は、弟子たちが借り受けてきた仔ろばにまたがります。鞍も何もありません。弟子たちは思わず自分たちの服を掛けてイエス様に座ってもらいました。偉いローマ軍人さんたちが入場するときは、いつも行進の道に赤い絨毯が敷かれます。一緒にエルサレムを目指していた人々は、「せめても」と自分たちの上着を道に敷いたのです。この部分、人々の、主イエスへの尊敬の行動として読むのが普通なのかもしれませんが、弟子たちや、期待してついてきた人々の、「少しでも威厳を示したい気持ち、飾りたい気持ち」があらわれてしまった部分だとも読めるのではないでしょうか。
 オリーブ山の坂を下るとエルサレムの門です。弟子たちは、極度の興奮状態に陥ります。37節にありますように、「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を讃美し始めた」のです。イエス様の人間の力を超えた奇跡の数々を今思い浮かべています。それを重ね合わせています。そしてエルサレムでどんな力を発揮されるのかぞくぞくしています。この新しい王イエスと並んで自分たちが都で栄光を受ける時が間近に迫った・・・弟子たちは興奮の絶頂にあるのです。この興奮は、相当数の民衆にもすでに伝播していたものでした。ルカによる福音書以上に、マタイやマルコ福音書の方が、たくさんの民衆が熱狂的にイエス一団を迎え入れたことが書かれています(時間が許されるならクラスの中で並行記事も読んでおかれると良いでしょう)。
 そうした中、仔ろばを所望し、その背にまたがってエルサレムに入っていったイエス様の目は何を見つめていたのでしょう。イエス様はその興奮と熱狂の中で何を想っておられたのでしょう。
 弟子たちのこのときの興奮は、やがて水を浴びせられていきます。群衆の熱狂は、わずか数日後には罵声に変わります。誤解に基づいた興奮、薄っぺらい熱狂でした。だとしても、ファリサイ派の人々にとっては、そうした人気はねたましいことでした。もしかしたらこの騒動にローマ当局が軍事介入してくることを恐れたのかもしれません。
「騒がないようにして欲しい。この熱を沈めて欲しい。」
 ファリサイ派の人々はイエスにそう言うのです。
 しかし、その時のイエス様の言葉が印象的です。
「もし、この人たちが黙れば、石が叫び出す」。
 イエス様は、弟子たちの興奮が誤解に基づくものだとわかっています。群衆が熱狂するのも、奇跡を求めているからであり、それもこれも、その貧しさと惨めさの中からの叫びであり、わめきであることをおわかりになってます。さらに、自分に神様が差し向けられる杯は、今、この人たちが熱烈に信じ、盛り上がっている君臨の姿ではなく、期待はずれの厳しいものになることもイエス様にはわかっていたでしょう。けれども、弟子たちの理解がたとえ間違っていたとしても、また群衆の言葉がどんなに身勝手なものであったとしても、そのような彼らは、その疲れの中から、貧しさの中から、病の淵の中から、なんらかの解放を求めているのもまた確かなことです。彼ら群衆が、「救い」というものを、新しい王の出現に夢を託すようにして求めてしまうこともまた、無理からぬ事であります。彼ら群衆がうめいている事実、さまよっている事実、絶望しかかっている事実、それは、「彼らが黙れば石が叫び出す」ほどに、真実・事実であり、彼らはもう煮詰まっているのです。その分、発火しやすい。
 こうした苦しみや貧しさを背景とした熱狂は、薄っぺらい分、残酷でもあります。すぐに、「十字架につけよ!」という声に変わってしまいますし、イエス様が逮捕されたとたん逃げ出してしまうような興奮です。でも、それが人間の事実であります。人間の熱というものもまたそういうものであり、そうした熱にうなされていくしかないところで虐げられ貶められている人々が、その魂を静めることかなわず、解放されることかなわず、いかんともしがたい魂で生きてしまっている。そのことの中に、人間の悲哀があり、そこから出てくる身勝手な信仰や身勝手な熱狂こそがまた人間の深い罪なのではないでしょうか。
 こうした人間の薄っぺらいけれども嘘っぱちとも言えない熱狂に、このときイエス様は、ご自身の身を委ねたのだと、わたしは思います。それは、悲しいまでの人間の弱さと罪のなせる熱情によってやがては捨てられていく道、十字架の道に、イエス様は自らを差し出したのだと言うことでもあります。しかし、民衆の群衆の、その悲しいまでの弱さと罪を、イエスは決して利用しなかった。それを憐れみ、それを味わい、それを担い、そしてその罪をその身に引き受けたのです。そして、悲しい熱狂が求めた姿ではない「十字架の死」をもって、イエス様は神の愛を貫かれ、罪の赦しと救いを示されたのでした。
 エルサレムの門をくぐる、興奮と熱狂の中で、イエス様が心の中に繰り返していた言葉は、「主がお入り用なのです」という言葉だったのではないでしょうか。仔ろばを借り受けるときに弟子たちに語らせた「主がお入り用なのです」という言葉を、実は、主なる神さまが、その御心を成し遂げるために、自分の荊の道を必要とし、自分の苦難の死を必要としている。主イエスは、この城壁の中で苦しめられ、この城壁の外に連れ出されて十字架に掛けられること、その道を、「主がお入り用なのです」と、イエス様は心に刻みつけておられたのではないでしょうか。

「主がお入り用なのです。」
 主は、いったい、この世の何をお入り用となさるのでしょうか。
 たとえば、仔ろばをお入り用となされた主イエスさまが、わたしたちのこの時代、果たしてどのようなものをお入り用となさるのでしょうか。これが一つの祈り求めです。

「主がお入り用ならば」
 わたしは、自分自身に、この言葉をどれほど重ねて生きているでしょうか。
  わたしは、自分に嫌なことでも、自分がマイナスを背負ってしまうことでも、自分が担うとするなら少々面倒くさいことになると思われることでも、「主がお入り用ならば」と、祈って生きているでしょうか。その葛藤と苦しみと祈りを、あまりにも早く、回避して生きてはいないでしょうか。

「主がお入り用ですから、ほどきます。」
 仔ろばの綱をほどこうとしたときに、どうしてその綱をほどくのかと訊かれます。そのとき、「主がお入り用なのです」と答えていくような、ある意味、世間の無理解とぶつかりながらも、主のお入り用を証しする生き方を、私たちはしてきているでしょうか。

 悲しいまでもの弱さと罪を背負い、身勝手な要求と、浅はかな熱情で生きてしまっていた私たちのために、十字架に掛かり死なれたイエス様。そのことを「父なる神のお入り用のためなり」と受け止められた主イエスさまに、わたしたちは、どうお応えして生きていくべきでしょうか。

                                  了


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-25 12:43:56 (1466 ヒット)

        【主がお入り用なのです】 ルカ福音書19:28−40
 五木寛之氏の『親鸞』を読むと、末法の世に、専修念仏・易行念仏(人は誰でもが、善人も悪人も、身分にかかわらず、念仏一つで救われる)と説いて広く民衆から慕われた法然上人の、その教えを誤解したり、曲解したりする人々、また、法然の影響力や人気を利用して一揆(革命)や権力闘争に乗じようとする勢力が、蠢いていたことがわかる。
 静かに苦悩する法然や、揺れ動く親鸞の心の描写は、2000年前に、民衆の歓喜の中、エルサレムに入場していったイエスの、あの日の胸中を想い測る上での一つの良い手引きであろう。読みごたえある一冊だ。
 エルサレムの門にひしめきあう民衆。興奮の絶頂を迎える弟子たち。妬みと憎悪を高めるファリサイ派。警戒を強めるローマ当局。民衆の歓喜は、薄っぺらい熱狂だった。事実、その週のうちに「十字架につけよ!」という怒声に変わっていったのだから・・・。
 しかし、主イエスは、それらの声に身をあずけ、仔ろばに乗ってエルサレムの門をくぐって行かれる。何を見つめていたのだろう。何を想うておられたのだろう。
 「主がお入り用なのです」。仔ろばを借り受ける時に語らせたあの言葉を、もはや自身の命にあてはめていたのではないだろうか。
                               ●2月26日週報巻頭言 吉高叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-17 15:55:50 (1446 ヒット)

    【愛を知り、他者を知り、わかちあう】 ルカ福音書19:1−10  
 エリコの町の徴税人頭・ザアカイは、そうとうな金持ちでした。ただしその代償として「孤独」を抱え込みました。徴税人への反発と悪口が、彼の心をいっそうねじ曲げ、頑なにしていったのでした。彼は、孤独の悲哀と怒りを埋めるかのように、集金と蓄財に没入したのです。しかし、その空疎な魂は悲鳴をあげ、助けを求めていました。
 イエス様は、孤独に怯えるザアカイの魂を一目で見抜きました。そして、単刀直入に「友だちになろう」と呼びかけます。思いがけない呼びかけに圧倒され、嬉しさに防備を解き、ザアカイは自分の家にイエスを招き、交わりに浸るのでした。ザアカイは、永らく切り離されてきた「愛される喜び」に出会いました。そして、決して信じることの無かった「愛する喜び」の真実を予感したのでした。
 彼は、孤独と引き替えに貯めこんだ自分の財をもう必要としなくなりました。むしろ、それらを必要としている人々に渡したいと願う心をもらいました。愛される喜びを知る者は、自分の賜物を役立てる他者を知り、わかちあう生き方へと回されていくのです。  ●2月19日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-07 15:54:36 (1473 ヒット)

          逆転の分水嶺 ルカ福音書16:19−31 
 神さまの慈しみと憐れみは生きて働きます。人間の前提や認識を軽々と乗り越え、まさかと思うところに自由に注がれます。ただし、慈しみと憐れみにすがることしか残されていない人や場面においてこそ、それは動きます。「ラザロと金持ち」のたとえ話は、このことを教えてくれます。この世での成功や栄華に溺れいつしかそれを「天国への通行証」だとさえ思い違いしていた特権階級の人々に向けてイエスはこの話しを語りました。
「神の前では、侮っている者が考えもしない逆転が起こるのだ」と。その上でイエスは富裕な人々に問うたのです。「あなたは、自分に与えられた恵みを、門前の貧しき者とわかちあったか。神の国の鍵は、そこにあったのだ」と。
 福音とは、私たちの心や魂がいかに満たされ慰められるかという問題です。しかし、同時に福音とは、満たされ慰められたその心や魂が、いかに動くか、誰に動くかという問題でもあります。あらゆる逆転劇を引き起こす神の自由なまなざしは、しかし、身近な隣人、助けを求める人々と私たちの交わりを、しっかりと見つめておられるのです。
●2月5日 週報巻頭言より  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-23 18:06:34 (1428 ヒット)

           【働く私、聴く私。手を取り合って】
 誰もが姉マルタのように、気になることのために懸命に動いています。そして同時に誰もが妹マリアのように、真実の前に聴き入りたいという求めを持っています。でも、どうしても目の前の「必要」に捕らえられて忙しく働いてしまいます。やればやるほど、かえって心を乱してしまうのです。その結果、自分の中のマリアを否定し、仕事に動員させてしまおうとするのです。
 真実に聴こうとすること。生活の様々な必要の中で、ほんとうに必要なものを求めて静まろうとすること。そんなマリアのような在り方を、自分の中のマルタが受け入れられなくなってしまいます。「心を乱す」とは、そのようにして、自分の心の中で、マルタとマリアが共に生きていけなくなる状態のことではないでしょうか。
「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 イエス様が、マリアの姿を守ってくださらなければ、私たちの心の中は、きっと「働き続けるマルタ」と「働かされるマリア」の家になってしまうでしょう。二人は共に生きているべきです。マルタとマリアという姉妹は、いつまでも共に一つの家に住んでいるべきなのです。
                     ●2月22日週報巻頭言   吉高 叶


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