メインメニュー
インフォメーション
リンク
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-16 13:36:06 (1557 ヒット)

         【求められなかった神】サムエル記上8:1-22
ある日、部族の長老たちがサムエルのもとに集まってきた。彼らの要求は二つ。サムエルの子どもたちをリーダーには担げないということ。そして、新たに国王を立ててくれということであった。生産力をあげ、軍事力を増し、近隣諸国に拮抗できる力を常備したいというのだ。
サムエルは深く躊躇した。イスラエルの王は、神その方ではないか。神のみを支配者として生きてこそ、歴史の中で格別に憐れまれたイスラエルの本義を現せるのではないか、と。しかし民は、サムエルの説得を拒絶した。「どの国も、王を持っている。自分たちも、あたり前の国家になりたいのだ」と。
そもそも、イスラエルは、王を持つエジプトの圧制と苦役にあえぐ中から助け出され、十戒を中核とする神の戒めによって生きる民へと招き出された。しかし民が認証したのは、神の慈しみではなく「人間の力」の方であった。人間の忘却と誤解のなんという罪深さよ。うなだれるサムエルに、神は語った。「王をもってみて初めて、それがどういうことなのかを民は悟るだろう。彼らの願いのままにせよ」と。
●6月17日週報巻頭言  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-11 13:30:28 (1524 ヒット)

             【ポジション】サムエル記上3:1-18
サムエルは、乳離れとともに母の手を離れ、祭司エリに預けられました。ある夜、幼いサムエルに神が初めて直接呼びかけられます。サムエルへのファースト・コンタクトです。サムエルは、エリに教えられた通りに呼び声に向かい合います。「僕は聞いています。主よ、どうぞお語りください。」
これが「預言者(神の言を預かる者)」の全てです。神の言の受け皿となり「聞きます」「お語りください」から始めていく、それが預言者の構えです。
ファースト・コンタクトは常に神からです。そして人間のファースト・ポジションは、受け皿であり、受信機であることです。
ところが、年端もいかないサムエルに、いきなり語られた神の言は、祭司職にありながら神を侮っていたエリの息子たちへの裁きの言葉でした。しかもその内容を、恩師エリに報告しなければならないのです。厳しい内容、苦しい仕事。幼いサムエルの心は、いきなり引き裂かれそうになります。けれども、それが預言者です。受けた言を、人間的な思いを排して語り伝えなければならない。これが預言者のセカンド・ポジションです。
●6月10日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-06-04 08:33:46 (1706 ヒット)

           【贈り物を、また献げる】サムエル記上1:1-21
「贈り物」には、贈った側が価値を決定するばかりでなく、むしろ贈られた側・受け取った側が価値を決定するという余地が備えられています。どんなに高額な贈り物でも、贈り手に真心がなければ逆に受け取り手を馬鹿にしたり、傷つけたりする贈り物になってしまいます。「恵み」とは、そのように贈った側と受けた側の関係性の中で憶えられ、輝くものだと言えます。
今日の聖書の中には、子だくさんの女性ペニナと、子どものいないハンナが登場します。当時のその世界の価値観からすればペニナは恵まれた女、ハンナは一見するとそうではありません。ハンナは子どもを求めて、悩みと苦しみの淵から必死に、訴えるように主に祈ります。私を心に留め、忘れないでください、と。
主なる神は、そんなハンナを顧み、やがて男の子を授けます。歓びにあふれた彼女は、祈りの中で約束したとおり、その子どもを神に仕える人(ナジル人)として献げるのです。「祝福」とは、このようにして、贈り手である神と、受け手である人との間で、固有の輝きと意味を持つようになるのです。
●6月3日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-05-27 18:39:51 (1585 ヒット)

        ペンテコステに注がれた力 使徒言行録2:1以下
「初夏の音楽礼拝」にようこそおいでくださいました。心より歓迎いたします。
さて、キリスト教会には、中核となる三つの記念日があります。一つはご存じのクリスマス、イエス・キリストの御降誕の記念日。それからキリストの復活を記念したイースター。そしてもう一つがペンテコステ(聖霊降臨日)です。教会の誕生日と言い換えても良いでしょう。本日は、そのペンテコステです。
イエス様はすでに天に挙げられ、弟子たちは地上に遺されていました。イエス様が約束してくださった聖霊が、自分たちに注がれるのを待ちながら、集まり、賛美し、祈っていました。ある日、待ち望んでいた聖霊が弟子たちを包みます。すると、彼らは、様々な国の言葉でしゃべり始めたのでした。各国・各地からエルサレム巡礼に来ていた多く人々は、その不思議な事実を目撃し、驚きました。
この日を境に、弟子たちは、四方八方へと伝道に遣わされていくことになります。聖霊の力は、人に出かけていく力を授けます。誰かと出会う力を備えられます。人の悩みを聴き、解決のために対話し、解放のために一緒に祈る「わかちあい」の力を授けてくれるのです。
●5月27日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-05-21 22:40:46 (1518 ヒット)

               【力の秘密】士師記16:15-31  
士師記を読んでいると、いったいどうであれば「士師」と認定されるのか、その資質についての基準がさっぱりわからなくなる。
ふつう、民を導いた指導者というのであれば、信仰深いとか、誠実だとか、謙虚だとか、何かあるだろう。しかし、士師と呼ばれた人たちのそういう点について、聖書はまるで興味がないようだ。ギデオンは笑ってしまうほど臆病だし、エフタはしなくても良い願掛けに娘の命を張ってしまうようなばか者だ。サムソンにいたってはどうにもならない乱暴者で好色家。だから、イスラエルの民を他民族への隷属状態から救い出したのは士師であり、士師なのだから資質があったのだ、という思考を捨てるしかない。
そうではなく、異境の偶像崇拝に溺れ、その結果として苦境にあえぐイスラエルを見捨てず、助けたもうのは主なる神であること。しかも主なる神は、人間が知る由もない方法で布石を打ち、その御業を静かに潜らせ、予期せぬ時に、予期せぬかたちで解放の業を爆発させる。
その神の自由で不思議な業の、その不思議さを指し示す役目を負わされているのが士師であると考えるべきだろう。
●5月20日 週報巻頭言 吉高 叶


« 1 ... 130 131 132 (133) 134 135 136 ... 160 »

日本バプテスト連盟   栗ヶ沢バプテスト教会

  〒270-0021 千葉県松戸市小金原2-1-12 TEL.047-341-9459


 栗ヶ沢バプテスト教会 Copyright© 2009-