【主イエスの味、主イエスの光】マタイ5:13−16
「あなたがたは地の塩、世の光」。そう言われると、私たちはつい気負ってしまう。他者への作用力、人々への影響力を持たなければならない。それがクリスチャンとしての存在意味だ、と。しかしその前に、素朴に気がついていなければならないことがある。それは、「イエス様が地の塩であり、イエス様が世の光である」ということだ。
イエス様が「あなたがたは・・・」と呼びかけ、招く事柄は、実は、まさにイエス様がそれであられるところへ呼びかけているのだ。「わたしは地の塩、わたしは世の光」。イエス様はそのように生き、そのように死に、そのようなものとして復活されたのではないだろうか。イエス様の十字架の愛と赦しの御業は、その身を世に溶かし、罪の世を照らしている。世は、もはや彼によって味付けられているし、世は彼の光をうち消すことはできないのだ。そして、この私も、イエス様の十字架の愛と赦しによって味付けられた者として、ここに生きている。
わたしの影響力。教会の影響力。イエス様を抜きにして、そんなものはいらない。主イエスの味、主イエスの光なのだ。
●1月13日週報巻頭言 吉高 叶
【誘惑の中のインマヌエル】マタイ4:1−11
明けましておめでとうございます。
新年最初の御言葉として示された聖書テキストは、「荒野の誘惑」です。人が辿るべき大切な道のりとして、自らもバプテスマを受けられたイエス様が、それに続いて進まれたのが、誘惑の待つ荒野でした。ここに象徴されていることは、信仰者の人生にもまた誘惑が満ちているということではないでしょうか。
こうも言えます。人が神様と向かい合う道を歩み始めた途端に、それまでは何とも思わなかったことが、誘惑として立ち現れてくるのだと。信仰者の新たな試練です。
人生にとって大切なことは、誘惑が無くなってしまうことではなく、また誘惑を誘惑と思わなくなってしまうことでもありません。誘惑を知ることです。誘惑を恐れることです。その上で、その誘惑に勝利されたイエス様を見上げて生きることではないでしょうか。
パンの誘惑、信仰の誘惑、権力の誘惑。サタンはこの三つの誘惑をもって、再び人を神から引き離そうとします。その中で、人がインマヌエルの信仰に立ち続けること。イエス様は身をもって、人生の善き姿を示してくださっています。
●1月6日週報巻頭言 吉高 叶
【キリストへの旅路】マタイ2:1−12
キリストの誕生にめぐりあった東方の学者たち。彼らは、長い旅を経て幼子のところにたどり着きました。幸いな人々です。
けれど、考えてみるなら、彼らの旅はあまりにも無謀で頼りない旅路でした。目的地も定かでない。旅程も決まっていない。会うべき相手すらもわからないままに出発した旅だったのですから。しかし、そこにこそ人間の人生の縮図があるように感じます。
多くの思想、哲学が、人生を旅路に例えて語ります。しかも人生という旅は、誰しもが見通しや計画を立てて始めるものではありません。気が付いたら始まっていて、既に旅路を歩んでいるのです。そして誰にとっても思い通りにいかないのが、この旅路・人生です。見当はずれのところに迷い込み、あわや罠にはまってしまいそうにもなります。容赦ない悪巧みが知らず知らず近寄っています。
そんな「無明長夜」の人生の夜空に、しかし道しるべの星が輝いています。この星が輝いている場所こそが天です。天を仰いで歩むときに、わたしたちはたどり着くのです。旅路の真の目的地に。
12月23日 週報巻頭言
<アドベントの随想>
「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」
ナザレの娘マリアが、受胎を告げにきた天使に答えて語った最後の言葉。マリアは、自分を主の言葉のはしため(しもべ)だと言い切った。主の言葉が引き起こす御業の受け皿となることに決めたのだ。そして、祈り、待ち、思いめぐらせる人と、彼女はなった。
主の御言(みことば)のしもべとなる。これもクリスマスが与えてくれる大きな示唆の一つである。「お言葉どおり、なりますように」という信仰を、自分なりに求めながら、アドベントを過ごしていきたいと思う。そこで、詩を一編。
聖書(みことば)を読もう、
見えてくるまで。
聞こえてくるまで。
聖書(みことば)を読もう、
一つになるまで。
一つとなるまで。
聖書(みことば)を読もう、
出会わされるまで。
遣わされるまで。
【教会は主告白の上に立つ】
●テキスト マタイ16:13-23
主イエスは弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」とおっしゃいました。パン種とは、酵母のことです。膨らませるイースト菌のこと。つまり、真理や原理を膨らませるところで、まちがった膨らませ方をしてしまうことがあるのです。もともとの生地をいかようにでも膨らませようとする人間の欲望や願望、思惑や思い込みの危険性を主イエスは指摘しています。
ですから「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねられたのも、人間の思いこみや願望を浮き彫りにさせるためです。その上で、主はずばり問われるのです。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」
「あなたはメシア。生ける神の子です。」こう答えた弟子に向かって、「あなたは岩(ペテロ)。あなたの上にわたしの交わり(教会)を建てる」と主イエスは宣言なさったのでした。
教会はしばしば、人々の必要や望み、この世での勢いや栄光という「酵母」によって膨らむことがあります。その瞬間に、「サタンよ、引き下がれ!」と、主は教会を弾劾なさるのです。
●12月2日週報巻頭言 吉高 叶