【祈り−瞼を閉じれば、そこは神の庭】 ローマ8:22−28他
祈りの姿勢。それは祈りがどのようなものであるのかを端的に示しています。私たちは祈るときに目を閉じます。それは、自分の目で見ている世界から遮断されるためです。目は最大の情報の入り口です。そして人間の判断の起点です。それゆえ、目で見えているものに左右され惑わされるのです。瞼を閉じることによって、それらからいったん遮断され、神が見ているもの、神が見せようとしてくださることに与ること、これが祈りの姿勢です。詩篇にはこうあります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」まさしく“瞼を閉じれば、そこは神の庭”なのです。
祈るときに私たちは手を組みます。それは、自分で全てに携わろう、自分で全てを解決しようとする思いを断ち切るためです。手は、人間の行為の象徴です。あらゆる行動の起点です。手を組むことによって、人間の行為からいったん遮断されるのです。
祈りは、「神の目が見る世界」「神の御手が働く世界」に自らを移し、そこでこそ神に問いかけ、神から御旨を聴かされていく「神との交わりの場」なのです。
●2月17日週報巻頭言 吉高 叶
【種を蒔かれ、種を蒔き】マタイ13:1−9
良い土地、道端、石地、茨の土地・・・。主イエスは、種が蒔かれた地面の状態に人間の何かを喩えています。信仰にまつわる人間の素地の話のようであり、また一人の人生の中で立ち現れてくる様々な姿のようでもあります。不確かで、浅はかで、弱い自分自身を顧みさせられる喩えだと思います。けれども、主の喩えの真の主題は、土地にではなく、「種を蒔く人」にあります。芽が出ようが出まいが、実を結ぼうが枯れようが、あきらめずに種を蒔き続ける農夫、それが父なる神なのです。神は、忍耐と憐れみをもって種(「御国の言葉」13:19)を蒔き続けておられます。
天の国は、この種と土地の出会いであり、交わりです。良い土地とは、この種との関係の中で捉えられるのであって、人間の素地そのもの(誰もが認める「良い人」とか)ではありません。いいえ、「良い人」にかぎって、一鍬入れれば、ガチンと石地に突き当たったりします。
「私」の状態を問わず、この私にめがけて今日も種は飛んできます。受けとめさえすれば、それ自身の力で芽がふく種が今日も新たに蒔かれているのです。
●2月10日週報巻頭言 吉高 叶
【御国をくださる神の御心】マタイ7:21−23
「神の国」とか「天国」と聞くと、わたしたちはどうしても「行く」ところだと考えてしまいます。「行く」と考えますから、行けるように頑張りますし、入る資格のある自分かどうかが気になります。自分の正しさで「行こう」とし、生前の生き方によって「入ろう」とするのです。
けれども、イエス様は一貫して、神の国は「来る」とおっしゃいますし、神の国は「与えられる」と言います。それは父なる神の慈しみと憐れみによって、ふさわしくないような者をも招き迎え入れる「神の愛の支配」なのだ、と。
山上の説教は、「そこに行こう」とするばかりに、神さまをではなく、自分を第一にしてしまう人間の転倒状態に対して、反律命題(あなたがたは、こう聞いている。しかし、わたしは言っておく!とひっくりかえす型)を通して、もう一度、人間をまっすぐ神さまと結び合わせるために語られたメッセージでした。
人間の強い願いが先に立って、「主よ!主よ!」と呼びかけることがありますが、「御心」をたずねていなければ、せっかく届けられようとしている神の国と、すれ違ってしまうことがあるのです。
●2月3日週報巻頭言 吉高 叶
【空の鳥、野の花、天の父】マタイ6:25−34
イエス様は「見よ」とおっしゃいます。空の鳥を見よ、野の花を見よ、と。
私たちは、そこに、焦らず、飾らず、ありのままを生きている姿を見ます。けれども、イエス様がほんとうに「見よ」とおっしゃっているのは、その生命の背後にある天の父の御心、神様の養いのことです。「見えているもの」ではなく「見るべきもの」への視線の転換を呼びかけてくださっています。
私たちは、どうしても見えてしまうものに心を奪われ、思い悩んでしまいます。すべての背後にあり、かつ、ほんとうは人間が常に見るべき方である神様が見えなくなるとき、強烈に見えてくるもの、それが、生活の必要であり、持ち物の不足であり、自己の貧しさです。拡大鏡で見るように、それらは大きく悩ましくなります。
「一日の苦労」。それはあります。日々を生きる計画、それもしていいのです。しかし、背後にある方を見失うとき、必要以上の苦しみが襲いかかります。「一日の苦労」以上の苦しみによって、今日というかけがえのない命の時間が、だいなしになってしまってはいけないのです。
●1月27日週報巻頭言 吉高 叶
【祈り・命の構え】マタイ6:5−15
「信仰を持つ」ということの根本にあることは、向かい合う相手としての神を知るということです。また、感謝を捧げる相手として神を知ることだとも言えます。
人間は、感謝する相手(しかも、その時々の相手ではなく、全てのことの背後にあって感謝すべき絶対的な相手)を持たないと、結局は自分を感謝するようになります。自分を誉め、自分を讃え、自分に感謝して生きるしかなくなるのです。そのようにして、自己はどんどん肥大化し、自分を常に喜ばせることのできる自分が大問題になっていきます。その精神性の行き着く先は絶望です。自己は、やがて衰え、必ず死を迎えるからです。
信仰生活とは、感謝を捧げる絶対的な相手をいただいて生きる生活です。感謝だけでなく、願い、訴え、すがりつくことを許される絶対的な他者をいただき、同時に、その方から問われ、示され、啓かれ、守られ、救われて生きる道なのです。その絶対的な相手、すなわち神様と向かい合い、対話している命の姿を「祈り」といいます。
ですから、祈りは、信仰者の「命の構え」だと言えます。
●1月20日週報巻頭言 吉高 叶