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本日の聖書箇所であるルカによる福音書17章11節以下では、思い皮膚病を患っていた10人の人を、主イエスが癒された物語が記されています。この物語は、4つの福音書の中でルカによる福音書だけに登場する奇跡物語であり、ここでは「癒し」と「救い」の関係、同時に両者の意味の違いが見事に表現されています。
イエスの一行がエルサレムへ上る途中のことでした。彼らが、サマリヤとガリラヤの間を通過する途中、ある村に入ると、そこで思い皮膚病を患っている10人の人が来てイエスを出迎えたというのです。おそらく、この村はこのような皮膚病患者が隔離されて暮らす居住区で、特別な部落であったと思われます。
「イエスさま、先生、どうかわたしたちを憐れんでください」この願い求めに主イエスはお応えになりました。そこで、祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。それは、律法が定める癒しの手続きでした。彼らがそこへ行く途中、10人全員が癒されたというのです。しかし、そのことに気が付いて、神を賛美しながらイエスのもとに帰って来た人は、ただ一人でした。本日は、この箇所からみ言葉に聞きます。
●8月27日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
ギリシャ神話の一つに「パンドラの箱」として知られる大変印象的な物語があります。プロメテウスが天界から火を盗んだことをゼウス(至上神)は怒ります。そこで、ゼウスは彼の弟エピメテウスに、怒りのしるしとして美しい女性であるパンドラ(すべての贈り物、の意)を送りました。彼女の美貌に魅せられたエピメテウスはパンドラと結婚します。ところが、彼女は「絶対に開けてはいけない」と言われていた箱を持参していました。その箱を彼女は開けてしまうのです。そこには、地上のあらゆる「悪」が詰め込まれていたのでした。それが、世界中に飛散してしまったという話です。
ところが、その箱の片隅から、なおか細い声が聞こえてきたといいます。それは「おーい、僕もここから出してくれよ」という声でした。その発声者が「希望」だったというのです。
本日はイザヤ書40章から、第2イザヤの預言の言葉を聞きます。バビロン捕囚の末期に登場したこの無名の預言者は、イスラエルの民に、捕囚からの解放と祖国への帰還を告げ知らせました。苦難の50年間は終わり、新たな歩みへの希望が与えられることを預言したのです。
●8月20日 週報巻頭言 教会員 H.T.
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本日のマタイによる福音書5章1節以下は、いわゆる「山上の説教」として知られる有名な箇所で、ここでは主イエスの八つの祝福の言葉(「幸いなるかな」)が、弟子たちに向けて語りかけられています。
本日の9節は、その一つである「平和を実現する者」に対する祝福が語られるところです。1節から8節までは、形容詞で示される人の性質(心の貧しい、柔和な、憐み深いなど)を備える人への幸いが語られていますが、9節で初めて「平和を実現する人」と、動詞で修飾される人が登場します。ここに深い意味があります。すなわち、「平和」は静止しているものではなく動的なものであり、それは争いの後にやってくるのではなく、むしろその前に来るもの、争いに先んずるものなのです。
教会は「キリストの平和」をこの世界に向かって宣べ伝えます。それは、イエス・キリストの十字架によって起こった神と人との和解の出来事を、この世に伝える働きです。人にはできない「神の子」のみがなし得た和解の業と罪の赦しを、教会は平和の福音として語るのです。
●8月13日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
Today's Gospel of Matthew 5:1 and following is the famous passage known as the so-called "Sermon on the Mount," where the eight blessed words of the Lord Jesus ("Blessed are you") are addressed to His disciples.
Today's verse 9 speaks of blessings for peacemakers," one of them. Verses 1 through 8 speak of blessings for those who possess the qualities of those indicated by adjectives (poor in spirit, meek, merciful, etc.), but in verse 9, for the first time, "peacemakers," those who are qualified by verb (to make peace), are introduced. There is a deeper meaning here. That is, "peace" is dynamic, not static, and it does not come after conflict, but rather before it, prior to it.
The Church proclaims "the peace of Christ" to this world. It is the work of the Church to tell the world about the event of reconciliation between God and man that took place through the cross of Jesus Christ. The work of reconciliation and the forgiveness of sins that only the "Son of God" could do, which no man can do, the Church speaks of as the gospel of peace.
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8月になり、この国と世界の平和を覚えて過ごす特別な月を迎えました。本日は、旧約聖書のエレミヤ書からみ言葉に聞きます。
エレミヤは、紀元前627年、ヨシア王の治世の第13年に予言者としての召命を受けました。エレミヤが預言活動をおこなった時代は、南王国であるユダが、アッシリアを滅ぼしオリエントを支配した新興国バビロンの西南アジアへの侵攻により、まさに風前の灯という時期でした。
そのような時代に、エレミヤは「諸国民の預言者」として立てられたのです。
エレミヤは、預言活動を始めるに当たり、二つの幻を見ます。一つ目はあめんどうの花です。それはヘブル語でシャーケードと言いますが、これは「見張る」(ショーケード)という言葉の語呂合わせになっています。つまり、時代の流れの中でユダ王国の行く末を見極め、王国が誤った道を歩むことがないように監視する者となれという神が示したシンボルでした。
二つ目は「傾きかけた、北からの煮えたぎる鍋」です。それはバビロンの軍事的脅威を表します。このような時代に、エレミヤは、人々に神の義とまことの神への「立ち返り」を説いたのです。
●8月6日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
August is here, and we have a special month to remember the peace of this country and the world. Today, we hear from the Word of God from the Old Testament book of Jeremiah.
Jeremiah received his call to prophecy in 627 B.C., in the 13th year of the reign of King Josiah. Jeremiah was prophesying at a time when the southern kingdom of Judah was in the midst of a desperate struggle against the invading Babylonians, who had destroyed the Assyrians and taken over the Orient.
In such a time, Jeremiah was established as "a prophet of the nations".
Jeremiah sees two visions as he begins his prophetic work. The first is the flower of the amenemand. It is the Hebrew word shirkade, which is a corruption of the word "watch" (shawkade). In other words, it was a symbol of God's desire for the kingdom of Judah to discern its future in the course of the times and to be a watchman to prevent it from going down the wrong path.
The second is the " leaning, simmering pot from the north." It represents the military threat of Babylon. In these times, Jeremiah preached to the people about God's righteousness and "turning" to the true God.
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教会における「奉仕」とは、そもそもどのようなものでしょうか。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章6節以下で、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい」と書いています。すなわち、奉仕とはキリストの体を立て上げるために必要な働きを、そこにつながる各自の賜物を活用して担い合うことであり、その根底にあるのは、神の恵みに対する感謝と喜びです。
福音書を読むと、主イエスは弟子たちに次のように語られています「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(ルカ22:26)。すなわち、神の国における奉仕とは、自らの身を低くして、神の働きを担うために人々の僕となるように勧告されるのです。
横浜JOYバプテスト教会では、教会の役員会の呼称を「しもべ会」と呼ぶように改め、それを今も続けているといいます。教会の人事や予算、また活動方針を決める リーダーは、何よりも「しもべ」でなければならないという考えに基づいているのです。本日は、ルカ福音書17章から、奉仕の意味について御言葉(みことば)に聞きます。
●7月30日 週報巻頭言 牧師 木村 一充